負ける人から勝つ人へ 第1コリント9章24~27節

 人生の真の勝利者とは、どういう人のことを言うのでしょう。日本には、「勝ち組」と「負け組」という嫌な言葉があります。ビジネスに成功した人、出世した人、高級車に乗れる人、を勝ち組というなら、ほとんどの人は負け組みになってしまいます。おかしな基準ですね。

 主イエスは、ご自分が勝利者であると言われました。
「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

 第1ヨハネの手紙を見ると、主イエスを信じる者が勝利者であると書いてあります。
「世に勝つ者とは誰でしょう。イエスを神の御子と信じる者ではありませんか。」(第1ヨハネ5:5)
「神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。わたしたちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。」(第1ヨハネ5:4)

 事業に成功して若くしてリタイヤ、残りの人生は世界旅行とグルメ生活。こうした「勝ち組」人生の夢なんて、たいしたことはありません。小さい、小さい、考えることが小さいです。

 パウロは第1コリントで主イエスを信じる人の人生を競技にたとえています。
「競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。」(第1コリント9:24)
当時のコリントでは、オリンピックのような競技大会が2年に一度開かれていたようです。一等の賞品は植物で編んだ冠で、まさに「朽ちる冠」です。その朽ちる冠のために選手たちは節制し努力をするのですが、クリスチャンも同様に目標を目指した生き方をするように励ましています。

 大切なことは、価値ある目標を定めることです。「勝ち組」なんて目標はベニヤ板みたいに薄っぺらいものです。目標を、神の栄光と定めましょう。パウロは、第1コリント9章23節で、「私はすべてのことを、福音のためにしています。」と言いました。神の栄光という概念を別の言葉で言い換えたと考えても良いでしょう。

 岐阜県のコロッケ屋を経営する79歳の男性のことを知り、さわやかな思いに満たされました。高校生がテストで80点以上の成績を取ったら、コロッケ2個をただで進呈するというのです。6年間続けているので、大学に合格した生徒がお礼に来たこともあります。この歳になったら、利益よりも、人に喜んでもらうほうが嬉しい、という気持ちだそうです。この店主の目標は単なる利益でなく、誰かの役に立ちたいというところにあります。だから価値があるし、生きがいも生まれます。

 あなたも、パウロが勧めるように、価値ある目標を定めましょう。その次に、あなたの持っている能力、経験、財産、気力、努力のすべてを集中して、走りましょう。そういう生き方をしている人は、さわやかで、楽しくて、生きがいがあります。

 50歳の男性が東京マラソンに参加したときのことでした。41キロ付近を走っているとき、警察官があわただしく動いている場面を見てレースを中断、近寄りました。意識不明の男性が横たわっているの見て、自分が消防士で資格のある救護士だと告げ、蘇生作業を開始、電気ショックを与える機械を操作して心臓機能を回復させました。しっかり呼吸ができるのを見届け、コースに戻ってゴールインしました。ゴールした男性の顔は、満足感と喜びに満ちていたといいます。

 私たちが、単に「勝ち組」になりたいという欲望で生きているなら人生なんてつまらないもので、優越感と劣等感を行き来するだけです。けれども、神の栄光を表すという価値ある目標を定めるなら、たとえ途中で遠回りをしても、貧しくなっても、倒れても、病気になっても、すべての事に意味が生まれます。神の栄光のために生きて地上の生活を終え人生のゴールに走りこむなら、主イエスがあなたを喜び迎えてくれるでしょう。「よくやった、忠実なしもべだ。わたしは、あなたの歩みを知っているよ。誰も見ていなくても、わたしは見ていたよ。あなたは立派に走った。あなたは、勝利者だ」と言ってくれるでしょう。

 決勝点をしっかり定め、あなたも持てるもの総動員して、意義ある人生をおくりましょう。
「私たちの前に置かれている競争を忍耐を持って走り続けようではありませんか。」(ヘブル12:2)