助けて ルカ11:1~4

 主の祈りは、すごい祈りなのです。

 人の抱える悩みとは、つまるところ現在、過去、未来の悩みです。主の祈りにはそのすべてを網羅した祈りです。あなたは、今生きること自体がとても問題ですか。過去が辛くて前に進めませんか。将来が不安で、冷静さを保てませんか。

1、現在形の祈り

 「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」

 今日食べるものがない。これは、生活の悩みです。切羽詰った大問題です。
笑って話せる貧乏体験がありますか。私は若い頃、パン屋でパンのみみをもらいに行ったことがあります。杉並区の立派なパン屋ですから、残ったパンや切り落とした食パンでもおいしかったことを覚えています。さすがに店頭では惨めな気持ちで一杯でした。
 あなたは、今日、食べ物がありませんか。そういう人は、生ける神にこう祈りましょう。「私たちの日ごとの糧を毎日お与えてください。」主の祈りは、現実を切り開く力をあなたに与える祈りです。
 今日食べる物にはまったく心配がいらないという人もいるでしょう。そういう人は、生かされているのが神の恵みだと気づく不思議な力を持った祈りになります。
 主の祈りは、現実を切り開く力を与え、謙虚さを人に与える祈りです。


2、過去形の祈り
 
 「私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負いめのある者をみな赦します。」

 過去の悩みの多くは人間の罪と関連しています。自分が犯した罪を嘆く。取り返しがつかない。人が自分にもたらした悪によって傷がいえない。特定の人を憎んでいる。別な角度でいえば、過去の悩みは人間関係の悩みに置き換えることができるのです。
 主イエスの教えにはバランス感覚があります。赦してくださいと願った自分も、次には人を赦すことがどうしても必要になるのです。「ごめんなさい」と「ゆるします」はセットになっています。人間は必ず失敗する生き物だからです。
 もし、「ごめんなさい」や「ゆるすよ」と最近言っていない人がいたら、心が硬直しているおそれがあります。握り締めている手は、人を殴ることしか考えません。その手を開いてください。誰かと手を繋ぐことができますよ。
 主イエスが教えてくれた祈りは、実に素朴です。罪を赦してください、という祈りです。この祈りをするとき、私たちは正直になり、柔らかい心を持つようになるのです。


3、未来形の祈り
 
 「私たちを試みに会わせないでください。」

 これは将来の悩みですが、角度を変えて言えば、<心>の問題ともいうことができます。心配いらないよ、思い込みすぎだよ、と人から言われても、心配でたまらないというのは悩みの根拠に実体がないということです。でも人間は、明日を思うとくよくよするものです。
 これとは違い、明白な理由で不安になる事があります。来週には手術がある、大事な商談が明日だ、入学試験が迫っている、リストラされる可能性が高い、という場合は深刻です。
 主イエスは、人に安易な幸せを公約しませんでした。むしろ人生には苦しみがあると明言されています。誰も苦しみから除外される人はいません。その厳しい人生で、主イエスが教えてくださった祈りは、「試みに会わせないでください。」というものです。この祈りには、不思議な力があります。不安で立ち止まり、しゃがみこんでしまう人が、この祈りをすると、なぜか勇気がわいてくるのです。神を信頼して、前に進む心に変わるのです。十字架の道を私たちに先立って歩いて下さった主イエスの言葉だから、力があるのです。

 このように、主の祈りは、過去、現在、未来の悩みに立ち向かえる心を与える祈りです。

 主の祈りの全体を見直すと面白いことに気づきます。主語に注目しましょう。<私>の祈りではなく、<私たち>の祈りなのです。主の祈りは、エゴイストを作る祈りではなく、<私たち>という枠をどんどん広げてくれる力を持っています。私一人が満腹すれば良いのではなく、身近な人、日本人、アメリカ人、世界の人が食べられることを望む祈りに発展します。
 主の祈りの特徴をもうひとつ。主イエスは私たちの悩み全体を良く知っておられるという事です。私たちの悩みの深さを本当に良く知っておられるという点に私は感動するのです。「わたしは、あなたの苦しみと貧しさを知っている。」(ヨハネ黙示録2:9)

 心を静めて、神を父と呼んで祈りましょう。父の懐で愛を受け、父を礼拝し、父を世界に伝えたいという思いに導かれ、父の御心に従うという心が私たちを包んだ後に、今日学んだ後半の部分を祈るのです。あなたの過去の問題、今の生活の課題、明日の心配、すべてを祈りによって神に伝えましょう。
 現実を切り開く力と謙虚さ、罪をあやまる正直さと人を赦す柔らかな心、そして、神への信頼と勇気を持って未来に立ち向かう人になりたいなら、主の祈りを心を込めてささげましょう。