走り寄る愛  ルカ15:11~24

 今日の箇所は、「放蕩息子」のたとえとして知られている。主イエスの語られた最高のたとえ話だ。神の愛とは何かをドラマチックに教えてくれる。

1、あこがあれて

 たとえ話に登場する弟は、目もくらむ遺産を生前贈与の形で手にし、遠い国に旅立った。この息子は、人が望む3つの願いをすべて獲得した。人が望むものとは、自由、お金、欲望の3つだ。自由とは、親や地域社会の束縛からの自由、何をしてもいい自由のことだ。お金は、自分の願いをかなえる手段。欲望とは、セックス、麻薬、宴会騒ぎなどの快楽を指す。

 「弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。」(13節)

 「欲望自動販売機」というものを想像してほしい。もちろんこれは私の想像の産物にすぎない。コインを入れると、願う欲望が満たされる便利なものと思ってほしい。ただし、人間の尊厳というコインを入れないと商品は出てこない。たとえば、親の愛を踏みにじるというコインを入れて初めて、好き勝手な自由が手に入る。妻の信頼と家庭の団欒というコインを入れるなら、浮気という快楽が手に入る。自分の脳の破壊というコインを入れれば、覚せい剤が出てくる、というわけだ。多くの人は、自分の尊厳と家族の平和を犠牲にして欲望を追求する。

 弟息子は、あっという間に財産を使い切り、気がつくと飢饉にみまわれ、豚の飼育係に身をやつした。あなたは、放蕩息子と似ているだろうか。

2、我に帰る

 「立って、父のところに行って、こう言おう。「おとうさん。私は天に対して積みを犯し、またあなたの前に罪を犯しました。(18節)

 弟息子は、どん底で、我に帰った。自由を求めていたが、結局は奴隷になっていた。靴を履いていないことから、彼が奴隷の身分だと分る。(22節)大金に喜んでいた彼は、湯水のように使ったため食事もできないほど貧しくなった。快楽に酔ったはずだが、孤独、空しさ、みじめさしか残らなかった。

 やっとここで、気づいた。孤独、空しさ、みじめさの原因は、自分の罪にあったと。父のもとに帰ると決心するが、息子として戻る資格がないことを正直に認めた。

3、走り寄る

 「こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。」(20節)

 帰ってきた息子を最初に見つけたのは、父親だった。父は、走り寄って、次男を抱きしめ、口づけした。息子が自分の罪を告白したから、息子を抱きしめたのではない。父は息子が謝る前に、ボロをまとった息子を抱きしめていた。この常識はずれの父の姿は、何を意味しているのだろう。これが神の愛だと教えている。

 神の愛とは、“As is”の愛だ。アメリカで、不動産を売買する際によく“As is”という表現を使う。それは、<現状通り、傷あり、難あり、汚れアリ、保証なし、無条件受け入れ、修理が必要>という意味だ。神は、他人がまゆをしかめるようなあなたをそのままで受け入れてくれる。これが神の愛だ。
 あなたは今、神に愛されている。

◆あなたの番です。
1、まだクリスチャンでない人は、神の愛に気づいてほしい。あなたは、神に無条件に受け入れられている。あなたの罪を悔い改め、イエスさまを救い主として信じよう。

2、クリスチャンのあなたは、身近な人に行動で愛をあらわそう。
 哲学者のアリストテレスは、興味深いことを言っている。建築家は家を建築することによって建築家になり、ハープ奏者はハープを演奏することによって音楽家になる。彼の言いたいことはこうだ。<正しい人>というのは、頭で正しい事を考える人ではなく、行動で正しさを表すことだ。そこで、私はあなたに言いたい。あなたも、<愛の人>になろう。つまり、身近な人に愛が伝わるように、愛を具体的にあらわそう。