詩篇10篇 主よ、立ち上がってください 

 不適切な質問は否定的な答えしか生み出さない。コミュニケーション・コンサルタントのドロシー・リーズが、そうした指摘をしています。
 「私は、なぜ不幸なんだろう」、「あなたは、なぜ、いつでもそういう態度なの」こうした種類の質問は、質問自体に問題があります。

1、見当はずれの質問

 「主よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。」(1節)

 かつては神が自分のすぐ隣におられると感じた。でも今は距離がある。神がお隠れになったとしか思えない神の不在がある。そこで神に訴え出た。

 これは否定的な答えしか引き出さない不適切な質問なのです。


2、偏った視点

 「悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、主をのろい、また、侮る。悪者は高慢を顔に表わして、神を尋ね求めない。その思いは『神はいない。』」の一言に尽きる。(3~4節)

 神を近くに感じられない詩篇の作者は、悪者にばかりに目を向けました。3節から11節には、悪者の言動、習性、思考パターンなどをつぶさに描かれています。

 欲望の塊(3節)、低次元の宗教心(4節)、高慢な態度(6節)、毒舌(7節)、悪辣な習性(8~9節)、横柄な確信(11節)。

 通常、悪者にばかりに目を向けると良いことは一つもありません。否定的な気持ちがエスカレートするばかりです。

 あなたの身近に「悪者」がいますか。職場の同僚や上司、学校の教師や同級生、家庭の夫や妻、親や兄弟、あなたの周囲にいる人を悪者にすることは可能です。
悪者の欠点を101挙げなさいと言われたら、いとも簡単にできるでしょう。その際、自分の欠点が一つも言えないなら、あなたの視点は偏っており、あなたの考えはバランスが取れていません。



3、自分の歪みに気づく

 自分は清廉潔白で相手は限りなく悪人だという迷宮に入ると、そこから出てくることは不可能になります。
ですが、主のあわれみのゆえでしょうか、詩篇の作者は神への積極的な祈りに突然転じます。

 「主よ。立ち上がってください。神よ。御手を上げてください。どうか、貧しい者を、忘れないでください。」(12節)

 なぜ、前向きになれたのでしょうか。鍵は11節かもしれません。

 「彼は心の中で言う。『神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。』」(11節)

 悪人の主張に目を留めたとき、自分の心の中で不協和音が響き始めました。どこかで聞いたフレーズです。神は忘れている。神は隠れている。神は見ていない。
これは、詩人の言葉と酷似しています。神に訴えた自分の言葉と本質的に同じです。

 そうです。これでは、信仰者である自分と悪人は同じになってしまいます。違う。違うはずだ。神は隠れてなんかおられない。神が見てないわけがない。神は今もここにおられる。それで、14節になると確信を持ってこう言いました。

 「あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。彼らを御手の中に収めるためにじっと見つめておられました。」(14節)

 詩篇の末尾では、神の守りと主権を心からたたえています。

 あなたの心をチェックしてみましょう。
 ・あなたの訴えは、適切ですか。
 ・「悪人」ばかりに視点を向けていませんか。

 神はあなたのそばにいるだけでなく、あなたを背負って歩いてくれます。あなたが母の胎内にいた時から(イザヤ46:3)、白髪頭になっても、神の姿勢は変わりません。

 「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。」(イザヤ46:4)

 どんな時も、どんなあなたも、神は目をそらせず、あなたと共にいてくださいます。