詩篇11篇 主に身を避ける 

 行き詰ったらどうするか。11篇はその答えです。

「主に私は身を避ける。」(1節)

 冒頭の一節がその詩篇の結論ということがしばしばありますが、11篇もそうです。主に身を避けるという言葉は、詩篇7、16、31、57、71篇にも使われています。これはきっぱりとした信仰告白です。この言葉が出てきた背景を考えてみましょう。


1、まずは逃げる

 ダビデは友人たちから1~3節のような忠告を受けました。

「鳥のように、おまえたちの山に飛んで行け。
それ、見よ。悪者どもが弓を張り、弦に矢をつがえ、
暗やみで心の直ぐな人を射ぬこうとしている。
拠り所がこわされたら正しい者に何ができようか。」(1~3節)

 いつ殺されてもおかしくない状況だから、逃げたほうがいい。社会の道徳基盤が崩壊しているので、正しく生きようとしても何の役にも立たない。

 逃げる。切羽詰ったときに最も有効な手段は、逃げることです。自殺するより、自己破産したほうがいい。殺されるより、学校を辞めるほうがいい。あなたが行き詰ってしまったなら、逃げましょう。

 ダビデも実際のところ、サウル王に命を狙われた時や、息子アブシャロムのクーデターの時には、逃げました。
 多くの人は、問題から逃げるだけで終わっています。ダビデは逃げただけでなく、神に逃げ込みました。これが神に身を避けるということです。




2、みそなわす主 

 「主は、その聖座が宮にあり、主は、その王座が天にある。
その目は見通し、そのまぶたは、人の子らを調べる。」(4節)

 口語訳聖書の4節には「みそなわす」という言葉が使われています。私が高校時代に通った教会に年配の男性がおられ、祈るとき必ずこの言葉が使ったことを懐かしく思い出します。みそなわすとは、<見る>の尊敬語です。神は見ておられます。
 
 ダビデの視点は、神に向けられていました。見ている方がおられる。たとえ、敵がいようとも、社会が堕落しようとも、神は見ていてくださる。逃げるとき、敵だけに注目してはいけません。復讐だけを考えてはいけません。逃げながら、神の視線を感じましょう。そこに、安らぎを見出しましょう。これも、神に身を避けることです。

 5~6節には、神が必ず正しい裁きを下してくださる事への信頼が語られています。これもまた、神に身を避けることです。

 ドイツの牧師、ディートリッヒ・ボンヘッファーはヒットラーの政策を批判したことで知られています。1939年、亡命のため渡米しましたが1ヶ月で帰国、6年後に銃殺されました。勇気ある人です。39歳で昇天。短い生涯でしたが、その生き方と文章が今も多くの人に感銘と勇気を与えています。彼も、主の視線を知っていた人に違いありません。



3、御顔を仰ぎ見る 

 私たち人間は、誰一人例外なく正義を求めていますが、自分の物差しに応じた正義に偏りやすいのです。ですから、混じりけの無い正義を持たれるただ一人の神を礼拝することが必須となります。祈りが、どうしても必要になります。

 「主は正しく、正義を愛される。直ぐな人は、御顔を仰ぎ見る。」(7節)

 「祈りのハイド」と呼ばれた宣教師がいます。イリノイ州出身のジョン・ネルソン・ハイド(1865-1912)は27歳の時インドに向けて出発しました。現地での宣教に困難を覚え、病気に倒れ、やがて祈りの中に大きな慰めと力を感じるようになりました。長時間の祈り、徹夜の祈りで知られ、祈りの実として多くの人が救いに導かれました。
 ウィルバー・チャップマン博士は、この祈りの人ハイドと共に祈った経験がありました。扉を閉めた部屋でハイド師と彼は跪きました。5分間、ハイド師は何も言葉を発しませんでしたが、チャップマン師の目から涙があふれ出ました。今、神とともにいる、と気づいたと彼は述べています。

 主イエスは言われました。「心のきよい者は幸いです。その人は神を見るからです。」(マタイ5:8)

 主に身を避けるとき、私たちは神の御顔を見るのです。その時、大きな慰めと力、安らぎがやってきます。

→あなたの番です
 □ 信頼できるクリスチャンに悩みを聞いてもらう
 □ 場合によっては、思い切って緊急避難をする
 □ 心を込めて主を礼拝する