詩篇14篇  愚か者の心

 「愚か者」と呼ばれて、怒るか、納得するか。それは、あなた次第。そこで、あなたに尋ねる。あなたは、「神はいない」と考えるか、神は自分にとっての避け所なのか。


1、「神はいない」という価値観        

 1節から3節は、神なしの人生を痛烈に批判している。

「愚か者は心の中で、『神はいない。』と言っている。
彼らは腐っており、忌まわしい事を行なっている。善を行なう者はいない。
主は天から人の子らを見おろして、神を尋ね求める、
悟りのある者がいるかどうかをご覧になった。
彼らはみな、離れて行き、だれもかれも腐り果てている。
善を行なう者はいない。ひとりもいない。」(1~3節)

 この詩篇によると、「神はいない」と言うのなら、その人の本質は腐っており、その人の行動は忌まわしく、神はいないとの認識は愚かだという。

 フランス人、ルネ・デカルト(1591~1650)は近代哲学の祖と呼ばれた。すべてを疑い、悩んでいる自分の存在は疑えず、「我思う、ゆえに我あり」との結論に至った。次に哲学者デカルトが提示したポイントは、驚くなかれ、神の存在の確かさだった。

 日本という国は、アメリカから見ると特殊な国に見える。マスコミがこぞって、神を信じる人間はインテリジェンスに欠けるという宣伝をしている。

 人間にとって、「神はいない」ほうが好都合だ。いまさら、神がいると言われても、軌道修正は無理なので、神の存在は真剣に取り上げたくない。その気持ちは理解できる。

 日本人が苦しいときに、「天照大神」にすがったり、「仏さま」と呼ばず、「神さま」と呼びかける。なぜだろう。それは、人間の作った神ではなく、本物の神を求めているからだ。

 詩篇14篇は、詩篇53篇と瓜二つだ。詩篇が150篇ある中で同じ詩篇を取り上げる理由は、交響曲の旋律が繰りかえされるように、人が心すべき内容だから、と私は勝ってに推理した。パウロは、ローマ3章で14篇を引用し、人間の罪の姿を率直に描いている。



2、神は避け所という信念

「見よ。彼らが、いかに恐れたかを。
神は、正しい者の一族とともにおられるからだ。
おまえたちは、悩む者のはかりごとをはずかしめようとするだろう。
しかし、主が彼の避け所である。
ああ、イスラエルの救いがシオンから来るように。
主が、とりこになった御民を返されるとき、
ヤコブは楽しめ。イスラエルは喜べ。」
(5~7節)

 詩篇14篇後半の主張は以下の通り。正しい者、悩む者、貧しい者と共に神はおられる。神を認める人は、神を避け所としている。そういう人は、真の喜びを見い出す。
 神を避け所とするとはどんな意味か。イザヤ25:4ではこう言っている。「あなたは弱っている者のとりで、貧しい者の悩みのときのとりで、あらしのときの避け所、暑さを避ける陰となられたからです。」
 さらに思い巡らすなら、「避け所」という言葉には以下の意味が含まれるかもしれない。

 ①善悪の基準としての神
 神がいないなら人生の座標軸の原点はない。自分の都合で正義はいくらでも捻じ曲がる。神を認める心があるなら、自分の罪が分かり、何をすべきか分かる。罪を犯したときに神の前で悔い改めることもできる。神は、私たちにとって正義と聖さを教える避け所となる。

 ②帰る場所としての神
 人には帰る場所が必要だ。神は私たちを愛してやまない我らの父だ。神は心の実家だ。時として父との口論もあるかもしれないが、神に見守られている喜びに変わりはない。

 『ベートーヴェンの生涯』(ロマン・ロラン著)を読むと、偉大な作曲家の苦悩に出会う。耳が聞こえなくなり「ハイリゲンシュタットの遺書」を書き、一時は死をも覚悟するベートーヴェンだが、その遺書に「神よ、おんみは私の心の奥を照覧されて、それを識っていられる」との言葉がある。創造主を何度ものろったと書いた手紙もある。それでも後年の手記には、神が永遠、全能、全知であると記し、「おんみに一切の讃美と恭敬とが捧げられよ」とたたえている。

 ③守ってくださる神
 人は弱い。私もあなたも弱い。だから、人生では、緊急避難所が何度か必要になる。神に逃げ込もう。神は受け止めてくださる。守ってくださる。休ませてくださる。
 詩篇ではじめて「避け所」という言葉が登場するのが14篇だ。詩篇62篇7~8節には2回「避け所」が使われている。もうだめだ、という時は、神に飛び込もう。躊躇はいらない。神は両手を広げてあなたを受け止めてくれる。

 あなたの番です。
 □神を本気で求めよう
 □神を避け所としよう