詩篇13篇 いつまでですか 

 私たちの悩みはエンドレスなのか。

1、いつまで?        

 「主よ。いつまでですか。
あなたは私を永久にお忘れになるのですか。
いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。」(1節)

 ダビデは「いつまで」という言葉を4回も使っている。詩篇13篇のトーンはこの言葉が決めた。
「いつまでですか」と問うのは、どんな時だろう。それは、苦しみに耐えてきた時だ。これ以上は体力も気力は維持できないという限界状態で発する言葉がこれだ。

 1節から2節を見ると、孤独、思い悩み、悲哀、恥、不当な取り扱いに苦悩するダビデの姿が浮かび上がる。
 あなたも「いつまでですか」と神に訴えているところだろうか。

 神は人間が作った時計の奴隷ではない。これは、著名な説教者チャールズ・スウィンドルの言葉だ。私たちの時計と神の時計は進み方が異なる。



2、立ち向かう祈りへ       

 神への訴えはいつしか祈りに変わっていた。それが3節。これは光を求める祈りだ。目の輝きとは活力と理解することも可能だ。

 「私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。
私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。」(3節)

 あなたはいつも、やらされていると思っていないか。野球やフットボールでいえば、守備やディフェンスの姿勢だ。追われる、急がされる、せかされる。守りの姿勢では、「いつまでですか」と言うしか道はない。神がくださった人生だ。神が与えてくださる光によって、前向きに立ち向かおう。

 中国のジョージ・チェンは、福音を伝えただけで収容所に入れられた。人の排泄物に膝まで浸かって肥料を作る作業を言い渡された。彼は、18年間、それに耐えた。「悪臭で看守も近づかないので、一日中、祈ったり賛美できた。みじめに見えたが、実は幸せだった。」と語っている。

 人生の難題に真正面から取り組む勇気を与えるもの、それが信仰だ。




3、恵み(חֶסֶדヘセド)に拠り頼む 

「私はあなたの恵みに拠り頼みました。
私の心はあなたの救いを喜びます。
私は主に歌を歌います。
主が私を豊かにあしらわれたゆえ。」(5~6節)

 祈り始めることにより、ダビデの姿勢が劇的に変わった。ヘセドに信頼する人になった。
ヘセドとは、旧約聖書における中心概念の一つ。契約に基づく愛のこと。恵み、いつくしみなどと訳される。ヘセドは、裏切ることのない神の愛であり、恵みだ。神の恵みに賞味期限切れなど一切ない。

 突き詰めて言うと、私たちの悩みには終わりが来る。

 神の恵みには終わりはない。

 「いつまででですか」という訴えに対する神の回答はこの詩篇にない。その代わり、祈りによって、難問に立ち向かう姿勢が与えられたダビデが描かれ、また、自信を持って神の恵みに立っているダビデがいる。ダビデには今、歌がある。喜びがある。

 神の恵みという言葉を、「イエス・キリスト」と置き換えて読んでみよう。そのままピッタリと当てはまる。

さあ、あなたの番です。

 □ どんな時でも、神のタイムテーブルに信頼しよう。
 □ 「いつまでですか」と訴える姿勢から、
   立ち向かう力を求める祈りを身に着けよう。
 □ 神の恵みは決して変わることがない。

  →神は脱出の道を備えて下さる。第1コリント10:13