詩篇12篇 混じりけのない言葉

 私たちは、人間の言葉という海で漂流している。

 現代社会で生きることは、人間の言葉というオイルやヘドロに汚染された海で泳ぐようなもの。ダビデはその苦しさの中で神を呼び求めた。それが詩篇12篇。あなたも、人間の言葉で窒息しそうですか。


1、不純物だらけの人間の言葉

「主よ。お救いください。
聖徒はあとを絶ち、誠実な人は人の子らの中から消え去りました。
人は互いにうそを話し、へつらいのくちびると、二心で話します。」
(1~2節)

 人間の言葉はつまるところ嘘とへつらいであり、その内面は二心で満ちている。不純物でいっぱいだ。周囲を見回すと信頼できる人がいない。アメリカ社会といっても表と裏が違う人はざらにいる。裏切る人はどこにでもいる。人間の言葉は信頼できない。ダビデも不純物だらけの人間の言葉に傷つけられた。
 
 嘘というのは、ヘブル語で空っぽという意味。「へつらいを」新共同訳は「なめらか」と訳している。二心は、原文では、心と心。

 嘘をつくときは目が泳いだり、口の周辺に手が行く。自分の姿を思い出してみよう。

 あなたも、ビジネスで誰かに裏切られたり、心変わりされたことがありますか。親戚、家族、知り合いに裏切られたことがありますか。ダビデは、誠実でない人々を処罰してくださいと訴えた。
 
 「主が、へつらいのくちびると傲慢の舌とを、
ことごとく断ち切ってくださいますように。」(3節)

 言葉で不誠実な人は、態度も傲慢だ。

 「彼らはこう言うのです。『われらはこの舌で勝つことができる。われらのくちびるはわれらのものだ。だれが、われらの支配者なのか。』」(4節)

 私たちの社会には、神とは別の価値観があって幅を利かせています。それで、嘘つき達が大手を振って歩いていられるのです。(8節)

 人間の言葉の中で漂流している我々は、二種類の言葉を本能的に求めている。
 一つは、ほっとできる言葉。もう一つは、正直な言葉。東京農工大の生協の名物店員白石さんの言葉は秀逸。味わい深い言葉で学生の質問に答えている。後者の代表例は、相田みつをの言葉だ。人間の弱さを正直に見つめて多くの共感を得ている。星野富弘さんの詩画も正直で、聖書的な希望が隠し味で入っている。
 ほっとできる言葉は、前向きな言葉と言い換えることもできる。正直な言葉は、キリスト教的に言えば、罪の悔い改めということも可能だ。人は、こういう言葉を求めて生きている。



2、混じりけのない神の言葉

 神の言葉は、三つの要素を持っている。

1)救う言葉(5節)

「主は仰せられる。『悩む人が踏みにじられ、貧しい人が嘆くから、今、わたしは立ち上がる。わたしは彼を、その求める救いに入れよう。』」(5節)

 神の言葉は、ほっとできるし、正直で、感動を覚えるが、それだけではない。神の言葉は、私たちを実際に救うことができる。

2)真実の言葉(6節)

 ハワイみやげの定番といえばコナコーヒー。でもコナ原産のコーヒーが10%や20%程度でもコナコーヒーと呼ぶ。高いけど、買うなら100%のコナコーヒーがいい。

 「主のみことばは混じりけのないことば。土の炉で七回もためされて、純化された銀。」(6節)

 当時、銀は炉で溶かされ不純物を取り除いて処理された。7回という数字は完全数なので、100%純粋な銀という意味。神のことばは、純度100%。決して裏切らない。信頼に足る言葉だ。変わることがなく、変える必要がないほど完全。

3)支える言葉(7節)

 私たちが、ほっとする言葉や優しい言葉を求めるのは、前向きの言葉を求めている印といえる。神のことばは、私たちを励まし、支え、守る。

 「あなたが、主よ、彼らをお守りになります。あなたはこの時代からとこしえまでも彼らを保たれます。」(7節)

 デンマークの哲学者キルケゴールは今から200年前に生まれた人だが、キリスト教的背景を持って人生を見つめた。彼によると、人間には3つの段階があるという。
   1)美的段階
   2)倫理的段階
   3)宗教的段階

 最初の段階で、人は欲望を追求するが、やがて行き詰まりを経験する。第二の段階では、道徳的な生活を志すが、やはり失望を見い出す。第三の段階は、死すべき自分の罪に気づき、自分自身を神にゆだねる。いわば信仰の飛躍が必要だという。

 私たちもダビデのように率直に祈ろう。「主よ。お救いください。」(1節)

 日曜の朝、行きつけのカフェでコーヒーを注文した人がいた。コーヒー代金は既に支払われていますと店員が告げた。店内を見てもそれらしい人物はいない。「さきほど、あるお客様が20人分のコーヒー代を払って行かれ、お客様は8人目に当たります。」と説明した。テーブルに着いた後、店内の見知らぬ人と目を会わせ、お互いに笑い合った。
 この話を知って、教会の姿に似ていると思った。命という代価を主イエスが先に払ってくださった。主イエスによる罪の救いを無代価で頂いた我々が今、教会で出会っている。目を合わせ、お互いに、感謝ですね、主イエスは素晴らしいですね、ともっと言い合ったらいい。

 あなたの番です→
  □否定的な言葉のプレイバックは止める
  □毎日、聖書を読む
  □示された聖書の言葉を握って、解決を信じる

 純粋な神の言葉に信頼して、困難な人生の荒海を乗り越えよう。