使徒12:1~17 熟睡できたペテロ 

 ペテロがエルサレム教会の指導者として活躍していたとき、ユダヤ当局に逮捕、投獄された場面を見てみたい。

1、その後のペテロ

 かつては、思い込みが強く不安定なペテロだったが、ペンテコステ後は堂々としたリーダーとなった。
 美しの門で足なえをいやし(使徒3:4~8)、大祭司らの前で大胆に弁明し(使徒4:12~14)、多くの病人を直し(使徒5:15~16)、議会の中でも力強く証言(使徒5:29~32)、ルダでアイネヤを立たす奇跡を行い(使徒9:32~35)、一度死んだタビタを蘇生させ(使徒9:36~43)、ローマ人の百人隊長コルネリオを救いに導いた(使徒10:34~48)。
 エルサレム教会もどんどんと成長していったが、ステパノの殉教をきっかけに厳しい迫害が起こり、十二弟子の一人ヤコブがヘロデ・アグリッパ1世に殺され、ペテロにもその手が伸びた。(使徒12:1~3)

2、牢にいたペテロ

 ヘロデ・アグリッパ1世はヘロデ大王の孫に当たる。ペテロが捕らえられたのは過ぎ越しの祭りの時期だtった。ユダヤの暦でニサンの月の14日が過ぎ越しの祭り、それに続く一週間が種なしの祭り、太陽暦なら3月から4月ごろにあたる。
この出来事は紀元44年ごろの出来事とみられ、主イエスが十字架にかかって10年以上の歳月が流れている。

 ペテロの警護は厳戒を極め、四人一組の兵士が四交代で警備した。ペテロが寝るときには、その両側に兵士が張り付いていたほどで、脱獄は不可能だった。
 ペテロの心中を想像してみよう。ヤコブは殺害された、ならば、自分も殺される。すぐに殺さないところをみると、過ぎ越しの祭りの終了を待って殺すつもりと予想できただろう。
 ペテロの脳裏をかすめたのは、主イエスの最期だ。主イエスが殺害されたのも同じ過ぎ越しの祭りの時。主イエスの足跡をたどるような気持ちになってだろう。

 もしかしたら、あなたも今、牢にいるような経験をしているかもしれない。その時は、祈ってもらうことだ。誰かに本当の祈りの課題を話して、祈ってもらうことだ。

 「こうしてペテロは牢に閉じ込められていた。教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」(使徒12:5)

 一方ではペテロが牢にいる。一方では教会の人々が自分のことのように考えて必死に神に助けを求める。この姿が、教会だ。
 健全な家庭なら同じことが起きる。家族の誰かが苦しめば、残りのみんなが苦しみ、打開策を探し、真剣に祈る。社会だって同じだ。誰かの苦悩を自分の苦しみとするなら、思いやりのある社会ができる。

 使徒12章5節の言葉は教会とは何かを教えてくれる言葉だ「教会は彼のために、神に熱心に祈り続けていた。」

 原文のギリシャ語を見ると、人々が教会で祈ったと書いてない。祈っていた場所はそもそも教会ではない、マルコの母の家だ。この当時、教会という言葉は建物を指して用いられてことはない。教会が祈る、それは、クリスチャンたちが心を合わせて祈ったということだ。NIVと新改訳聖書は、主語を教会にして訳している。これは、この箇所にしか出てこない興味深い表現だ。まさにそれは、教会が祈っていたという状態だった。

3、祈る教会

 教会が祈っていた時刻とはいったい何時ごろだろう。それは、ペテロが牢で熟睡していた時間、つまり深夜だった。教会の祈りは熱い祈りだ。

 すると突然、主の御使いが現われ、光が牢を照らした。御使いはペテロのわき腹をたたいて彼を起こし、「急いで立ち上がりなさい。」と言った。すると、鎖が彼の手から落ちた。そして御使いが、「帯を締めて、くつをはきなさい。」と言うので、彼はそのとおりにした。すると、「上着を着て、私について来なさい。」と言った。(使徒12:7~8)

 祈られていたので、ペテロは熟睡できた。明日殺されると思われた夜、ペテロは天使にわき腹をつつかれるまで起きなかった。まるで、寝坊の高校生が起こされるみたいだ。起こされてからも、ペテロは夢を見ているようでぼーとしていた。言われるまま着替え、帯をしめ、履物をはき、第1、第2の関門を通過した。最後に残ったのは鉄の門だった。不可能という文字が立ちはだかるような強固な門だった。

 「彼らが、第一、第二の衛所を通り、町に通じる鉄の門まで来ると、門がひとりでに開いた。そこで、彼らは外に出て、ある通りを進んで行くと、御使いは、たちまち彼を離れた。」(使徒12:10)

 驚いたことに、鉄の門はひとりでに開かれた。これこそ神のなさることだ。あなたの鉄の門は、神の時に開かれる。

 聖書でもっともユーモラスな箇所がこの後に続く。

 こうとわかったので、ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた。彼が入口の戸をたたくと、ロダという女中が応対に出て来た。ところが、ペテロの声だとわかると、喜びのあまり門を開けもしないで、奥へ駆け込み、ペテロが門の外に立っていることをみなに知らせた。彼らは、「あなたは気が狂っているのだ。」と言ったが、彼女は本当だと言い張った。そこで彼らは、「それは彼の御使いだ。」と言っていた。(使徒12:12~15)

 女中のロダは、ペテロだと分かったのに門を開けなかった。嬉しさが勝って、仲間に知らせに走ってしまった。これがまず面白い。次に、ロダの説明を聞いたクリスチャンの反応がおかしい。あなたおかしいんじゃない、だって今は真夜中だ、ペテロが釈放されるタイミングじゃないよ、という雰囲気で取り合わなかった。そもそも、徹夜で祈っていた内容は何だったのか、ペテロの救出だったはずだ。
 その後、門をたたく音がして、用心深く開けてみるとペテロだった。その後は大騒ぎになったので、ペテロが手を使って静止しなければならないほどだった。

 ペテロは押しも押されぬエルサレム教会のリーダーとなり、教会も<祈る教会>へと成長を遂げた。主イエスのまいた種は、こんなふうに育っていった。

→あなたの番です。
□誰かに祈ってもらおう。本当の祈りの課題を分かち合おう。
□鉄の扉が開かれると信じよう。
□あなたが祈る人になろう。祈りのネットワークを広げよう。