エペソ3:14~21 パウロの祈り

 パウロの祈りは、普段私たちがしている祈りと違う。何が違うのだろう。

・私たちは他人の不完全さを嘆くが、パウロは他人の信仰の成長を神に願う。
・私たちは目先のことを祈るが、パウロは本質を祈る。
・私たちは自分に目を向けるが、パウロは神の栄光に目を向ける。
・私たちは自分の力を過信するが、パウロは神の絶大な力を信じる。

 なぜ、パウロはこのように祈れるのだろう。それは、神が生きておられることを本当に知っているからだ。神が大いなる力をもって私たちに関わって下さると20節のように確信しているからだ。

 「どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に」(20節)

 3:16~21のパウロの祈りを暗記して何度も口に出してみて、私は多くのことを学んだ。


1、説明文が祈りに変わる

 パウロは、エペソ人への手紙1章から3章で神の救いの素晴らしさを説明してきた。三位一体の神による救い、驚くべき神の恵み、ユダヤ人と異邦人が家族になるという奥義。ここに至って、パウロは説明を止め、祈り始めた。

 パウロの初期の手紙、第1テサロニケ3:10~13にも同じパターンがある。説明がいつのまにか祈りになっている。

「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(第1テサロニケ3:10)

 祈りによって、誰かの信仰の不足を補うことができる。私たちも、誰かの相談を受けたとき、人間の言葉を一時停止し、神に祈ることが必要なのかもしれない。


2、本質的な課題を祈る

 私たちの祈りはたいてい具体的だ。病気のいやし、試練からの脱出、お金が与えられること、子供の非行が直ること、すてきな彼女と結婚できること、希望校に合格すること。
 緊急性が高く切実な祈りが多いが、ときに、周辺的な事柄に何度も振り回されることがある。たとえば、お金の使い方に計画性がなく、支払い期限ですったもんだする人を思い描けば分かりやすい。大事なことは、いつが支払い期限かではなく、その人がしっかりと自分の心をコントロールすることだ。

 パウロは、木にたとえると幹や根の成長を祈っている。内面の成長という中心課題を祈っている。本質が神によって取り扱われれば、周辺的な事柄に毎度毎度振り回されなくてすむ。私たちの本質とは、内なる人が強くなることだ。

 「どうか父が、その栄光の豊かさに従い、御霊により、力をもって、あなたがたの内なる人を強くしてくださいますように。」(16節)

 私たちの祈りを、的を得た祈りにしよう。


3、キリストが心のうちに住んでくださる

 「こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。」(17節前半)

 ルカ19章に、主イエスが悪名高いザアカイの家を訪問した記事がある。罪だらけのまま、心の掃除もしないまま、ザアカイは主イエスを家にお迎えした。主イエスは、ザアカイの心に住んでくださった、それでザアカイの心は前向きに変えられた。

 私たちは、主イエスを私たちの心という家にお入れすることを躊躇している。主イエスに来ていただくことが素晴らしいとは分かっているが、それを邪魔する何かがある。それは、何だろう。

 あなたの信仰によって、主イエスに住んでいただけますように。



4、キリストの愛を深く知ることができるように

 「また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。」(17節後半から19節前半)

 キリストの愛を知る。それを、求道者が信仰を持つための初歩的知識と考えるならば大きな間違いになる。キリストの愛を知ることは、信仰の成長に不可欠で、生涯追い求めるべき中核的な真理だ。

 主イエスの愛の広さは全人類を覆うほど広く、生まれてから今日まであなたを見放さずに愛すほど主イエスの愛は長く、私たちを天に引き上げることができるほど主イエスの愛は高く、どんな汚れた罪人にも届くほどキリストの愛は深い。

 ロバート・マクルキン先生は日本で宣教師をした後、コロンビア・バイブルカレッジ/セミナリーの総長をされた方。奥さんが若年性アルツハイマーになり、マクルキン先生は神に祈ったという。どちらか二つのうち一つがかなうように。妻の病が奇跡的に治ること。もう一つは、自分の心に神の奇跡が起きること。最終的には、祝福されていた神学校の働きを辞し、奥さんの看病にすべてを捧げる道を選ばれた。マクルキン先生はキリストの愛を知っておられた。


5、栄光を祈る

 「教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。」(21節)

 赦された罪人の集まりにすぎない教会が神の栄光をあらわす。救われたけれど不完全なわれわれ罪人が神の栄光をたたえる。罪人の賛美を受け入れる神の謙虚なあり方に感動する。

 成功したとき、失敗したとき、喜ぶとき、落胆するとき、私たちはさまざまなことを祈るが、最後にいつも上を見上げるべきだ。どんなときも神の栄光を見上げる必要がある。私たち人間は、神を賛美するために生まれたのだから。

→あなたの番です

□誰かのために祈ろう
  1)内なる人を強くしてください
  2)キリストが心に住んでくださるように
  3)キリストの愛を知ることができますように
  4)神の満ち満ちた姿に引き上げてください
□同じ祈りを自分自身のために祈ろう
□私たちの願いを越えて施すことのできる神を信じよう
□いつも神の栄光をたたえよう