第2コリント8:1~15 献金の祝福

 7章で主からの慰めを語ったパウロは8章に入り、具体的な問題を取り上げました。

 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。(第2コリント8:1)

 マケドニヤとはコリントの北方の地域を意味し、ピリピ、テサロニケ、ベレヤなどの教会を指します。これらの教会が、神の恵みを受けたことを伝えたかったのです。
 神から具体的に何か良いものをもらったから恵みなのでしょうか。いいえ。マケドニヤの教会が献金したことにより受けた神からの祝福を、恵みと呼んでいるのです。

 今日は、献金の祝福を3つの角度からお話します。献金は、1)喜びをもたらし、2)礼拝の真髄に導き、3)キリストの御姿に近づけてくれるものです。

1、与えることが喜びをもたらす

 私たちは物を集めることや金を貯めることに喜びを感じます。ですが、意味あることのために失うならば、喜ぶことができます。
 実家に帰ると、子供を手ぶらで返したくないので、親はがらくたのように見える物でも(失礼!)、「これ、持っていきなさい」と与えます。心臓病になった子供を助けるために、親は貯金を使い果たして借金しますが、そこに親の喜びがあるのです。

 苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。(2節)
 
 マケドニヤの教会の人々は、苦しい試練の中にあり献金どころではなかったはずです。極度に貧しかったので、与えることは本来は不可能でした。けれども、持っているお金をささげたのです。その結果、あふれる喜びが生まれたのです。「満ちあふれる喜びは」「あふれ出て」とあるとおりです。

 失うことで得る。貧しくなることで、富む。
 これが、神が与えて下さる恵みです。
 私たちは本来、分け合って生きていくように神に造られたのです。


2、自分自身をささげる礼拝者

 私たちは、献金することによって、礼拝の真髄を学ぶことができます。

 礼拝の本質とは何でしょう。それは、神への賛美と感謝であり、神のみこころを知って自分自身を主にささげることです。
 ローマ12章1~2節に書かれている霊的な礼拝の原則も、神のみこころを悟り、自分をささげることだと言っています。主に自分をささげることの一部として、献金があるのです。

 私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。(第2コリント8:3~5)

 マケドニヤのクリスチャンは、「神のみこころ」(5節)を求めました。これが神を第一とする姿勢です。神のみこころに応答して、「まず自分自身を主にささげ」ました。「自ら進んで」(3節)、「聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです」(4節)まだ見たこともないエルサレムの貧しい人々への資金援助を彼らは決断したのです。

 私たちも礼拝でこう祈りましょう。主よ、私に命を下さり感謝します。生かして下って感謝します。家族や仕事を感謝します。罪から救って下さり感謝します。あなたは素晴らしい神です。あなたをたたえます。私のもっているものはすべてあなたから出たものです。どうぞ私を用いて下さい。私自身をささげます。私の経験と賜物を用いて下さい。そして、私の財産を用いて下さい。これらすべてを通してあなたの栄光が表されますように。

 献金することで、まことの礼拝が何かを知ることができます。


3、キリストに似る

 あなたがたは、私たちの主イエス・キリストの恵みを知っています。すなわち、主は富んでおられたのに、あなたがたのために貧しくなられました。それは、あなたがたが、キリストの貧しさによって富む者となるためです。(第2コリント8:9)

 富んでおられた主イエスが、貧しくなられました。キリストの貧しさが、私たちを豊かにして下さったのです。

 今夏、パサディナにあるノートン・サイモン美術館でヤコブ・ファン・ライスダール(1628-1682)の大きな風景画を見て、しばらく釘付けになりました。
 ライスダールはレンブラントと同じ時代にオランダで活躍し、風景画の巨匠ターナーやロマン派のドラクロワなどにも影響を与えた画家です。私が見たのは、川のある山の風景に立つ3本の偉大な木という作品でした。森の中にそびえる3本の木が中心に描かれています。ちょうど光が差し込んでいる一本の大木の幹が無残に折れています。私は、その木に吸い寄せられ、見つめ続けるうちに大きな感動を受けました。なぜだろう。折れた木が、付近の自然を力づけ、川となり地域を潤しているように見えました。
 そうか。この木は十字架だ、と自分なりに解釈しました。

 死んでくださったお方により、私たちは命をもらいました。無実の方が、罪深い私のために身代わりになってくださいました。富んでおられた方が貧しくなって下さった。主イエスの生涯とはそのようなものです。

 献金することは、このような主イエスをほんの少し真似ることになります。貧しくなることを学ぶときです。

 今日のまとめをしましょう。献金する中で私たちは神の恵みを確かに頂きます。その具体的な意味は、以下のようなものでした。
 1)与えることで大きな喜びを受ける
 2)自分自身をささげる礼拝者になれる
 3)キリストに似た者にされる

 あなたも、心から献金することにより、神の恵みを味わいませんか。

 あなたの番です→
  □献金できることを喜びましょう
  □神への礼拝として献金しましょう
  □今週、誰かに分けたり、与えたりしてみましょう