ヨシュア5:1~15 主の軍の将

   ヨルダン川を渡ったイスラエルの民は記念碑を作り主をあがめたが、いまだに戦闘態勢に入らない。今日の箇所では、敵に襲われたらひとたまりもないような危険な行動をする。
 なぜ、そうするのか。また、なぞの人物が現れるがそれは誰なのか。

1、敵は途方にくれていた

イスラエル人のために彼らの心がしなえ、彼らのうちに、もはや勇気がなくなってしまった。(1節)

 イスラエルの敵である、エモリ人やカナン人は、心配で押しつぶされていた。神の力により、イスラエルの民がカラカラに干上がったヨルダン川を渡った話を聞き、戦意喪失していた。

 今日、あなたに知ってほしいことがあります。あなたは、今、心配でつぶされそうかもしれません。未来が見えずに恐れているかもしれません。でも、あなたの敵は、あなた以上に心配して、みじめなほどにブルブルと震えているのです。
 「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。」(ローマ8:31)

 神は、あなたの敵に、大きな恐れを注入してくれる方です。


2、心を決める

 イスラエルの男性全員が、神の命令により、割礼を体に刻む処置をした。(2~9節)

 割礼は、男性の性器を被う皮の一部を切り取る外科手術で、アブラハムが神と契約を結んだ時に神に命じられた契約の印だった。イスラエルの人々は、男子が生まれると8日目に割礼を施すことになっていた。(創世記17:1~12)
アメリカで男の子が生まれると、宗教上の問題は別にして、医学的観点から割礼の処置を行っている。
 出エジプトを経験した成人男子がすべて荒野で死んだ後(6節)、生まれてきた男子への割礼は一切行なわれていなかった。神に逆らった世代が神への反逆の意味でしなかったのか、それとも、神の民の印にふさわしくなかったからか、理由は分からない。

 現代の手術用のメスではなく、火打石を削って作ったナイフでは、処置は痛かったはずだ。創世記34:24~25によると、割礼後3日目が一番傷が痛むという。戦うことは不可能だ。それでも、割礼をした。敵が襲ってきたら、全滅の危機だったが、神に従った。生きることも死ぬことも神に完全にゆだねた。

主は彼らに代わって、その息子たちを起こされた。ヨシュアは、彼らが無割礼の者で、途中で割礼を受けていなかったので、彼らに割礼を施した。民のすべてが割礼を完了したとき、彼らは傷が直るまで、宿営の自分たちのところにとどまった。(7~8節)

傷は痛んだが、神の民の自覚は逆に鮮やかになった。私たちは、神の民。私たちは、神に従う。神のために戦う。そういう気概が起きたはずだ。

 試練や問題に立ち向かう時、私が誰なのかを確認することは大切だ。私は神に造られた者で、ずっと神に愛されてきた。イエスさまが私の罪のために十字架で死んでくださり、私はイエスさまを救い主として信じた。だから、生きることも、死ぬことも、主の御手の中にある。そう心から言えたら、私たちはとても強くなる。
 「私にとって、生きることはキリスト、死ぬこともまた益です。」(ピリピ1:21)

 あなたも心を決めましょう。敵や問題に翻弄される前に、自分が誰なのかを旗印を鮮明にしましょう。主イエスを信じていないなら、今日、信じますと神に言いましょう。神をすでに信じた人は、信じたあかしとして、洗礼を受けましょう。

 どんな事が起きても、何が横たわっていても、神を信じる者として前に進みましょう。


3、主の軍の将

 リーダーにはリーダーだけの不安がある。大統領選挙候補者は、人前では元気で覇気があっても、一人になると、投票予測データが出るたびに、落ち込んでいるかもしれない。
イスラエルの司令官のヨシュアは、難攻不落の城壁の町エリコを遠くからながめ、一人たそがれていた。

さて、ヨシュアがエリコの近くにいたとき、彼が目を上げて見ると、見よ、ひとりの人が抜き身の剣を手に持って、彼の前方に立っていた。ヨシュアはその人のところへ行って、言った。「あなたは、私たちの味方ですか。それとも私たちの敵なのですか。」(13節)

 気がつくと前方に将軍のような軍装をした男が立っていた。それも、鞘からぬいた両刃の剣を手に握っていた。

 この見知らぬ人物が、殺気をみなぎらせ、剣を振り上げてヨシュアに迫って来たなら、ヨシュアは話しかける間もなく剣を抜いて応戦しただろう。ヨシュアが歩み寄ったという記述を見ると、見知らぬ戦士がエリコの方角を見て立っていたと考えるのは論理的だろう。

すると彼は言った。「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」そこで、ヨシュアは顔を地につけて伏し拝み、彼に言った。「わが主は、何をそのしもべに告げられるのですか。」すると、主の軍の将はヨシュアに言った。「あなたの足のはきものを脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」そこで、ヨシュアはそのようにした。(14~15節)

 その戦士は、敵とも言わず、見方とも言わない。最初に、「いや」と言っている。主の軍の将だと言った。まるで、ヨシュアの質問が的外れだと指摘しているようだ。敵か味方は重要ではない。ヨシュアが、神の側にいるかどうかが肝心だと言っているように見える。

 ヨシュアは、その謎の人物を礼拝した。黙示録22:9を見ると、天使は人間による礼拝を拒絶するものだと分かる。とすると、この人物は天使ではないと分かる。その人物は、ヨシュアにはきものを脱ぐように命じた。
 モーセが燃える柴を目撃し、靴を脱いで主を礼拝した場面を思い起こす。多くの聖書学者は、主の軍の将が生まれる前の主イエスだと説明している。

 「この戦いは主の戦いだ」と言った人物がいる。信じられないほど大柄な敵の前に立ち、鎧も身に付けず剣も持たずに立ち向かった。その名は、ダビデ。第1サムエル17:47に書かれてある。
 私たちが直面している戦いや試練も、主の戦いなのです。

 怖くなるのは、自分で戦おうとするからだ。戦いの先頭に立つのはあなたではない、主イエスだ。主イエスは、すでに臨戦態勢にある。あなたが将軍ではない、主イエスが主の軍の司令官だ。主イエスは、何千、何万という戦士を引き連れて、戦ってくださる。

この箇所から何を学べばよいのだろう。
何か大きなことに取り組む前に、敵や試練に立ち向かう前に、主を礼拝しよう。それが、最も正しい戦い方だ。靴を脱ぎ、神の前に謙虚になろう。神が生きておられることを信じよう。神をたたえ、礼拝しよう。問題や悩みを主の御手にお任せしよう。神が戦ってくださると信じよう。

「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。」(ヨハネ16:33)

私は25歳で副牧師になり、28歳で別の主任教会に導かれました。やがて教会に来る人が増えて会堂建設の必要に迫られました。総工費はかなりの額になりました。私には城壁のようにそそり立つ問題に見えました。
50歳代の男性役員たちと共に銀行に出かけ、融資の依頼をしました。責任者の私は30歳代前半の若造でした。役員たちは、連帯責任者となり契約書に実印を押しました。彼らの信仰は見事です。銀行の担当者は、私たちの計画を受け入れ、融資を許可しました。(今考えると、役員達の社会的信用の高さ、教会の会計報告の堅実さ、当時の社会の経済状況などがプラスに働いたと思えます)最終的には3階建ての教会堂が建ちました。
主が前に進んでくださったから、としか私には思えません。

 →あなたの番です
 □あなたの敵が震えていることに気づこう。
 □主イエスについて行くと心に決める。
 □主の前で靴を脱ぎ、主を礼拝しよう。


「いや、わたしは主の軍の将として、今、来たのだ。」(14節)