ヨハネ9:1~41  マイナスをプラスに



  この一節。ヨハネ9章3節。
この言葉で、どれほど多くの人が慰めらて来たことだろう。
傷ついた人、絶望した人、そして、その親たちは、この言葉で生きる勇気をもらってきた。

1、神のわざ

主イエスの弟子たちは、生まれつきの盲人を見て、素朴な質問をした。誰が悪いのか。誰が原因か。弟子たちは当時の人々の常識を述べたに過ぎなかった。盲人に生まれついたのは、本人の罪か、親の罪か。日本人なら、先祖のたたりか、と聞くだろう。

イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)

なんとパワフルな言葉だろう。なんと積極的な言葉だろう。
神のわざがその人に現れるとは、次の3つの意味があると私は考える。
 1)神の力がその人の内部で働くこと。
 2)神の力がその人に及んだことが、周囲の人に分かること。
 3)本人や親たちが、生生きがいを持つこと。

英語訳聖書では、神のworks displayed in himとなっていて、神のわざがどんなにはっきりと示されるかが分かる。

Neither this man nor his parents sinned,” said Jesus, “but this happened so that the works of God might be displayed in him.(ヨハネの福音書9:3NIV

滋賀県に近江学園という知的障がい者の施設がありますが、設立者は日本の知的障がい者教育のパイオニアの一人、糸賀一雄(いとが・かずお、1914~68年)です。彼は高校時代にクリスチャンになっていました。彼は、常日頃からこう言っていました。この子供たちに光を、ではなく、この子供たちを光に。障がいを持った子どもたちが自ら輝く素材だから、もっと磨きをかけて輝かそうという発想です。

生まれつき、あるいは人生の途中でマイナスを背負っても、主イエスを信じて輝いる人たちがたくさんいます。たとえば、星野富弘さん、水野源三さん、レーナ・マリヤさん、ニック・ボイチェチさんの人生を見ると、神のわざを見ることができます。

生まれつきの盲人の男性は、主イエスによって目に泥を塗られました。(6節)シロアムの池までは、盲人の足では遠かったはずですが、その池の水で洗いなさいと言われ、アクションを起こしました。あなただったらどうしますか。

「行って、シロアム(訳して言えば、遣わされた者)の池で洗いなさい。」そこで、彼は行って、洗った。すると、見えるようになって、帰って行った。(7節)

 生まれつき目が見えないということは、あなたにとっては何を意味しますか。
主イエスを信頼し、主イエスの言葉を受け入れましょう。それが、いやされる鍵です。主イエスを信じて、歩き出しましょう。その時、あなたは光の中にいることに気づきます。


2、私は信じます

ところで、イエスが泥を作って彼の目をあけられたのは、安息日であった。こういうわけでもう一度、パリサイ人も彼に、どのようにして見えるようになったかを尋ねた。彼は言った。「あの方が私の目に泥を塗ってくださって、私が洗いました。私はいま見えるのです。」すると、パリサイ人の中のある人々が、「その人は神から出たのではない。安息日を守らないからだ。」と言った。しかし、ほかの者は言った。「罪人である者に、どうしてこのようなしるしを行なうことができよう。」そして、彼らの間に、分裂が起こった。(14~16節)

9章の後半、パリサイ人らは主イエスを非難し続け、いやされた盲人を尋問し、盲人の両親まで引っ張り出しました。(18~23節)その男性は、何度もパリサイ人に呼び出され、同じ質問をされてうんざりして、詳しいことは分からないが「今は見える」(25節)と述べました。

イエスは、彼らが彼を追放したことを聞き、彼を見つけ出して言われた。「あなたは人の子を信じますか。」その人は答えた。「主よ。その方はどなたでしょうか。私がその方を信じることができますように。」イエスは彼に言われた。「あなたはその方を見たのです。あなたと話しているのがそれです。」彼は言った。「主よ。私は信じます。」そして彼はイエスを拝した。(35~38節)

盲人だった男は、会堂の組織から追放されましたが、主イエスを信じ、礼拝しました。

パリサイ人たちはウルトラ頑固でした。生まれつきの盲人がいやされても否定する努力を繰り返し、盲人をいやした主イエスを否定しました。目が開いているのに、目が閉じた状態になっています。(39~40節)
そういえば、日本の三大頑固の産地(?)として知られるのが、津軽、肥後、土佐です。それぞれ、「じょっぱり」、「もっこす」、「いごっそう」、という呼び名があり、頑固な男たちが有名です。生まれた場所に関わらず、人は皆、頑固です。でも、頑固な人ほど、主イエスを信じた後が素晴らしいです。

岡山医大を1948年に卒業した男子学生、青木優(まさる)さんは、将来に夢を抱く医者の卵でした。病院でインターンとして勤務していたある日、目に稲妻のような光が走りました。それは網膜出血で、最終的に失明してしまいます。布団の中に頭を入れ、「なぜだ」と叫び続けました。そんな中でヨハネ9章3節の言葉に出会いました。「この一行の言葉のうちに、私は、イエスが『お前の失明を通して、お前でなければなしえない神の仕事をするのだ』と語りかけておられるのを感じた。それは電光のように私の頭上にひらめき、雷鳴のように私の魂を打った」(『行く先を知らないで』より)なぜ、と理由を探すことをやめ。むしろ、この出来事の中にこそ、神の目的があると気づき、神学校に入学、牧師になり、多くの人を励ましました。

あなたにとってマイナスと思える要素は、神のわざが現れるチャンスとなります。あなたのマイナスをプラスに変えるもの、それが、プラスの形をした主イエスの十字架です。
主イエスと主イエスの言葉を信じて、あなたのシロアムの池に出かけましょう。
 
イエスは答えられた。「この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現われるためです。(ヨハネ9:3)

→あなたの番です
□あなたのマイナス要素は、神のわざが現れるチャンスと考える
□主イエスを信頼し、シロアムの池であなたの目を洗いましょう