ヨハネ8:1~59  あなたは誰ですか


1、罪をゆるす主イエス

 最初に本文の問題に触れておきます。
 ヨハネ7:53~11は、新改訳聖書では括弧の中に入っています。この意味は、本来のヨハネの文章にはなかったという意味です。英語聖書NIVにも注意書きが付いています。
 文脈、文体、使用される語彙などが、この箇所が本来のヨハネのテキストになかったことを裏付けています。また、この物語は、写本によって、ヨハネの福音書の最後に付記されたり、ルカの福音書21章、または、24章の最後に挿入されたりしています。
 「この書には書かれていないが、まだ他の多くのしるし」(20:30)がある、とヨハネは言及していますが、ヨハネも共観福音書の記者も記録しなかった出来事の一つが姦淫の場で捕まった女の出来事なのかもしれません。さあ、内容に入りましょう。

私がこの場にいたなら、たぶん、怒ったでしょう。相手の男はどこにいる、その男も同罪だ。この女の命を何とも思わないのか、おまえたちは人間ではない。
ですが、主イエスは、静かに身をかがめていました。主イエスの心の中には別の風が流れていました。批判の北風でなく、ゆるしの風です。一言だけ言われました。

「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(7節)
 
 年長者から出て行き、やがて、一人も残りませんでした。ここで分かることが2つあります。第一。主イエスは石を投げられる人としてその場に残ったのですから、主イエスは罪のない者なのです。第二。主イエスは女の罪を赦すことのできる方だということです。

 「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」(11節)

 主イエスがどんな方か、心にとめてください。罪を指摘するのが人間です。罪を赦すのが主イエスです。殺そうとするのが人間で、生かすの主イエスです。

 私は家庭という場所が特別な場所だと思っています。子供は大人になるまで、何回も悪さをし、嘘をつき、親を裏切りますが、親は子供たちを何百回でもゆるします。家庭は本来、ゆるしの場所なのです。妻と夫も同じです。何度も過ちを犯し、謝り、ゆるします。同じことを家庭の外でしたら、人間として終わりになってしまいます。ゆるされて育ち、愛されて生きるのです。

 主イエスを信じて生きるということも、神を父とした家庭の一員になることです。主イエスが、ゆるしの鍵を握っています。
 さあ、飛び込みましょう。及びもつかないほどのきよいお方である、主イエスの胸に飛び込みましょう。主は、近寄りがたいほどきよく、罪のないお方でありながら、罪にまみれた私たちを抱きしめてくださる方なのです。「わたしもあなたを罪に定めない」


2、あなたは誰?

 主イエスとユダヤ人との会話が8章全体で続きます。
 ユダヤ人は、主イエスの奇跡をすでに知っており、主イエスが普通の人ではないと気付いていました。では、いったい誰なのかという疑問が起きました。それで、主イエスと話していた人々は「あなたはだれですか」(25節)と尋ねたのです。

 主イエスの答えは、予想範囲を超える内容でしたので、人々はそれについていけません。

 ①主イエスに従う者は、決してやみの中を歩むことがない、と言い切りました。(12節)
 ②主イエスを遣わしたのは、父なる神だと明言されました。(18節)
 ③主イエスは、上から来たと語られました。(23節)
 ④父なる神から聞いた事だけを、そのまま告げていると言われました。(26節)
 ⑤主イエスを遣わした方は、主イエスと共におられると言われました。(29節)
 ⑥主イエスのことばにとどまるなら、わたしの弟子だと教えました。(31節)
 ⑦主イエスが真理を教え、真理が自由を与えると述べました。(32節)
 ⑧主イエスのことばを守るなら、死を見ることがないと約束されました。(51節)
 ⑨アブラハムが生まれる前から、主イエスはおられると断言されました。(58節)

 人々は、主イエスの言葉を文字通り受け取れず、主イエスが自分を神と等しくし、神を冒涜しているとして、石を投げて主イエスを殺そうとまでしました。

 あなたは、どう思いますか。主イエスは誰ですか。

 主イエスの言葉を否定するなら、8章に登場するユダヤ人と同じになります。主イエスの言われることを文字通り受けとめるなら、主イエスが神であり救い主だと分かります。
 
 ヴィクトル・ユーゴーが1862年に書いた小説『ああ無情』のテーマはゆるしだと私は思います。主人公ジャン・ヴァルジャンが刑務所から出て教会を尋ねると、司教は「あなたの名を知っていますよ、あなたの名は兄弟です」と言う場面が有名です。それなに、ジャン・ヴァルジャンは銀の食器を盗んで逃亡、警察に連行されます。司教は、銀の食器は私が差し上げたもので、この銀の燭台を忘れていますよと言って司教はゆるしと恵みを与えます。主人公は、その銀の燭台を生涯離さず、受けた赦しを他の人に返していく生涯を送るという小説です。私は、ヨハネ8章とテーマが通じるように思えます。

 主イエスは、優しい方で、思いやりの深い方ですが、それだけではないのです。神が人となられた方なので、事実、罪を赦し、命を捨てて罪の身代わりに十字架につき、私たちの罪を完全に帳消しにされたのです。主イエスが8章で語られたことは本当なのです。

 「わたしは、世の光です。わたしに従う者は、決してやみの中を歩むことがなく、いのちの光を持つのです。」(12節)

→あなたの番です
 □主イエスに罪を赦されていることを感謝しましょう
 □主イエスのいのちの言葉にとどまりましょう。