ヨハネ10:1~42  良い羊飼い



  ヨハネ10章は、主イエスが羊飼いであることが力強く述べられています。主イエスが羊飼いなら、私たちはみな、羊になります。
羊の特徴は何でしょう。臆病。道に迷いやすい。弱い。頑固。誰かに似てますか?
失敗、挫折、病気、人間関係のもつれ、岐路に立ったとき、過ち、そんな時、私たちは自分が弱く、迷った羊だと感じます。

1、主イエスは良い羊飼い

 主イエスは、どんな意味で良い羊飼いなのでしょう。
主イエスの語られたことを手がかりにすると以下のようなことが分かります。

1)羊を知っている(14、27節)
2)羊を救う(9節)
3)羊に、命と安らかな生活を与える(9、10、28節)
4)羊のためにいのちを捨てる(11、15、18節)

わたしは門です。だれでも、わたしを通ってはいるなら、救われます。また安らかに出入りし、牧草を見つけます。盗人が来るのは、ただ盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするだけのためです。わたしが来たのは、羊がいのちを得、またそれを豊かに持つためです。わたしは、良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。(9~11節)

わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っています。また、わたしのものは、わたしを知っています。(14節)

 「羊」の代わりに、あなたの名前を入れてみましょう。あなたが、主イエスにどんなに大切にされているか気づきますよ。ダビデは詩篇23:1で「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。」と歌っていますね。

 ある日本人青年がオーストラリアの神学校に行って学び始めました。海外旅行が初めての経験で英語がまったく分からず、IQテストを受けると質問が分からないので0点で、校長に呼び出されました。日本に帰れ、お前は落第だと言われることを覚悟しました。学長は、遠くから学びに来てくれてありがとう、みんなあなたを歓迎している、心配するな、自分にできることをして、学校を楽しみなさい」と言ってくれました。この学生は牧師となり、現在も日本で用いられています。愛されていることが何か、この経験で学んだと言われています。

 主イエスは、あなたの名前を知っており、誰よりもあなたを良く知っていて、あなたを導き、あなたを守り、あなたに命を与え、あなたを豊かにし、あなたのために命を捨ててくれたお方です。私たち羊を命の道に導いてくれる最高の羊飼いです。

 命を捨てるのは、それ以外に助ける道がなくて最後の手段で命を捨てるということです。今年の北海道で何十年に一度の寒波が来ましたが、ある50歳代の男性は夜、9歳の娘さんを連れ帰る途中、猛烈な吹雪で視界を失い、車を捨て知り合いの家を目指しましたが、行く手を阻まれ、風に背で受け娘さんに自分の上着を着せて朝まで頑張りましたが、お父さんは凍死、娘さんの命は守れらました。

 もし、あなたが、道に迷い行く手を失っているなら、泥沼に迷い込んだ羊のようになっているなら、自分は失格者だ、自分なんて何の価値もないと思う人がいるなら、あなたの後ろを振り返ってください。泥まみれになってあなたを探しに来た主イエスがいるはずです。

 主イエスは、あなたのために命を捨てた、まことの救い主、あなたの羊飼いです。


2、主イエスは父なる神と一つ 

 主イエスは祭司や律法学者から見るなら、爆弾発言とみなされることを言われました。

 「わたしと父は一つです。」(ヨハネ10:30)

 これは、主イエスが行っている事と父なる神が行っていることが本質的に同じだと、27~29節で説明された結論でした。

わたしの羊はわたしの声を聞き分けます。またわたしは彼らを知っています。そして彼らはわたしについて来ます。わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から彼らを奪い去るようなことはありません。わたしに彼らをお与えになった父は、すべてにまさって偉大です。だれもわたしの父の御手から彼らを奪い去ることはできません。(27~29節)

旧約聖書エゼキエル書34章には、羊飼いについての長い言及がある。「わたしがわたしの羊を飼い、わたしが彼らをいこわせる」(エゼキエル34:15)その箇所では、まことの羊飼いとは神ご自身であると語られている。主イエスが、ご自身こそ良い羊飼いであると主張され、神と一つであると発言されたのは、旧約聖書の観点から見ても必然的帰結なのです。

 ユダヤ人たちは、主イエスの発言を表面的に受け取り、神を冒涜していると即断したので、手に手に石を握りしめ、石打ちの刑にしようとしました。(31節)

 主イエスは冒涜ではないと反論、主イエスが行って来た奇跡のわざに目を留めよ、と次のように語られました。すると、人々は振り上げた手を下ろすしかありませんでした。

 もしわたしが、わたしの父のみわざを行なっていないのなら、わたしを信じないでいなさい。しかし、もし行なっているなら、たといわたしの言うことが信じられなくても、わざを信用しなさい。それは、父がわたしにおられ、わたしが父にいることを、あなたがたが悟り、また知るためです。(37~38節)

 水をぶどう酒に変え、カペナウムの役人の息子の病気を言葉だけでいやし、ガリラヤ湖の水の上を歩き、38年間歩けなかった男を立ち上がらせ、生まれつきの盲人の目を開けた主の奇跡のわざを否定することは、たとえ敵対者たちでさえできませんでした。

 私たちは弱く、迷いやすい羊ですから、まことの羊飼い、主イエスについていきましょう。


 →あなたの番です
 □あなたは、羊飼い主イエスに今日も導かれています
 □主イエスの声を聞いて、ついて行きましょう
 □主イエスのみわざが行われるように求めましょう