ヨハネ11:17~57  わたしはよみがえりです



  松竹梅は本来論語の言葉で、不遇に耐えてけなげに生きるたとえのようですね。冬に緑を保つ松、雪の重みに負けない竹、極寒に咲く梅。
 マルタとマリヤに会いにいかれた主イエスの気持ちを考えるうちに、松竹梅という言葉を思い出しました。今日は、99%の暗闇に覆われた時、どう生きるかという事を考えます。

1、99%の暗闇

 物事はすべて悪い方向に向かっていました。
1)ラザロは墓に埋葬され、4日が過ぎていた(17、39節)
2)大勢の弔問客でごった返し、葬式一色だった(19節)
3)マルタは主イエスの不在を責めた(21節)
4)信仰深いマリヤでさえ主イエスの不在を抗議した(32節)
5)マリヤは泣き崩れ、弔問客はもらい泣きした(33節)
6)盲人の目を開けた主イエスは、ラザロを癒せたはずとの批判の声があった(37節)

 主イエスは完全な神ですが、同時にまぎれもない人間でした。ロボットや機械のような鉄の心を持っていたのではなく、主イエスは私たちと同じような壊れやすい心を持っておられました。人に責められればつらいのです。人の悲しみに触れると涙が出るのです。ヨハネの福音書は、主イエスが人間であることを躊躇なく記録しています。

マリヤは、イエスのおられた所に来て、お目にかかると、その足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」そこでイエスは、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊の憤りを覚え、心の動揺を感じて、(32~33節)

しかし、「盲人の目をあけたこの方が、あの人を死なせないでおくことはできなかったのか。」と言う者もいた。そこでイエスは、またも心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴であって、石がそこに立てかけてあった。(37~38節)

あなたは、最近、自分に幻滅したことがありますか。自分の発言。自分の行動。自分の取り乱した姿。思い出すだけで自己嫌悪に陥る。もし、そうなら、主イエスが動揺する姿はあなたの慰めになるはずです。主イエスは、私たちの葛藤が分かってくださるのです。

 主の栄光はいつあらされるのでしょう。物事の99%が悪い方向に向かい、心乱れる時なのです。あなたが暗闇にいて、動揺の真っ只中なら、主の栄光はすぐ近くにあります。


2、主イエスの言葉を、信じるか否か

マルタはイエスに向かって言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります。」イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」(21~23節)

 マルタは復活を信じていましたが、死んだラザロは終わりの日によみがえる、というおぼろげな希望でした。主イエスは、あなたの兄弟はよみがえるとはっきり言われました。

イエスは言われた。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか。」彼女はイエスに言った。「はい。主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストである、と信じております。」(25~27節)

 マルタは一応こう言いましたが、ラザロの墓の石をころがしなさいと主イエスに言われると、もう臭くなっていますと答え(39節)、ラザロの復活を信じていないことが暴露されます。

 納得できるから、神の言葉ではないのです。そうなりそうだと合理的に推測できるから、神の言葉ではないのです。主イエスが言われるから神の言葉なのです。

 東日本大震災のとき福島の病院で勤務していたあるクリスチャン、地震の揺れがあまりに強いので死を覚悟しました。危険な場所から引き上げるよう他の人から強く言われても、災害拠点病院で勤務を続けました。理由は、死んでも天国にいける私が先に逃げることはできない、という自覚でした。主イエスのいのちを持っていることが、今の生き方を規定しました。

 主イエスは、いのちです。主イエスこそ、よみがえりです。この方を信じるなら、死ぬことはないのです。あなたは、主イエスの言葉をそのまま信じますか。


3、神の栄光

 イエスは彼女に言われた。「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る、とわたしは言ったではありませんか。」(40節)

 主イエスが使いに託してマリヤたちに言われた言葉、「この病気は死で終わるだけのものではなく、神の栄光のためのものです」(4節)この言葉をマリヤもマルタもまるで聞いていませんでした。主イエスを信じ、主イエスの言葉を信じているなら、神の栄光を見るのです。

 墓のふたが開けられると、主イエスはラザロに聞こえるような大声で、「ラザロよ。出てきなさい。」(43節)と言われました。

 すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたままで出て来た。彼の顔は布切れで包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」(44節)

 誰もが唖然としました。まさかと思いました。布をほどいて、ラザロの笑顔を見たなら、葬式は結婚式のようにガラリと変わったことでしょう。
この奇跡で、多くの人が主イエスを信じました。(45節)一方、知らせを聞いたパリサイ人たちは、主イエスが危険な人物だと確信を持ち、抹殺すべきだという結論を出しました。

 東関東大震災の日、気仙沼を大津波が襲いました。阿部さん夫妻は、旅行中で津波の難から逃れましたが、気仙沼の自宅はすべて消失、通っていた気仙沼第一聖書バプテスト教会も土台だけとなり、自営業として営んでいた印刷会社の建物には1.6メートルの高さの泥水が浸入、総額1億円の被害を受けて打ちのめされ、再起不能とあきらめて泣き崩れました。
 外国人クリスチャンがボランティアとしてやって来て、掃除、建物の改修を助けられ、5月の連休に訪れた三女の夫が信仰告白してクリスチャンになり、5月の末には小規模ながら印刷業を再開、地震から一年後には本格的な印刷機を購入し、印刷業に復帰できました。
 阿部さんは言っています。多くの人が助けてくれた。どんな苦しみの中でも、神が愛を注いで下さった。最初は下を向いていた。しだいに前を向き始め、最後は上を向くようになったそうです。
 印刷会社の建物は、教会の礼拝堂として兼用していますが、礼拝スペースの正面には旧約聖書の言葉が掲げられています。「大水もその愛を消すことができません。洪水も押し流すことができません。」(雅歌8:7)

→あなたの番です。
□主イエスは困難に取り巻かれ動揺され、私たちの葛藤を体験的に理解してくださる方
□「もしあなたが信じるなら、あなたは神の栄光を見る」(40節)
□主イエスと主イエスの言葉を文字通り信じましょう