ヨハネ19:1~42 完了した

 十字架は信仰の原点であり、私たちの生き方を根本的に変化させるものです。
 主イエスを助けようとしたピラト、「完了した」と言い残して死なれた主イエス、十字架の最期を見届けた男たちの変化を、ヨハネ19章を通して見ていきましょう。
 


1、ピラトの証言

 ローマ総督ピラトは、主イエスと対話し主イエスの態度を見て、死刑に値する罪はないと判断、助けようと模索しました。4節でピラトは「あの人に何の罪も見られない」と述べ、6節で「私はこの人には罪を認めません。」と公言し、12節では「イエスを釈放しようと努力した」とある通りです。

 共観福音書の記述(マタイ27章、マルコ15章、ルカ23章)では、懲らしめた上で十字架に付けるという流れになっていますが、ヨハネの筆によるとピラトが主イエスを助ける策として鞭打ちを課したと読めます。1~5節を良くお読みください。

 それでイエスは、いばらの冠と紫色の着物を着けて、出て来られた。するとピラトは彼らに「さあ、この人です。」と言った。(5節)

 ピラトが、この血だらけの男はイエスである、「さあ、この人です」と説明しなければ、主イエスだとは分からないほど無残な姿になっていたはずです。イザヤの預言の通りになっています。(イザヤ53:2~3)
 四十に一つ足らない鞭打ち刑は、それだけで死人が出るほど過酷な処置です。鞭の先に取り付けられた鉛や動物の骨が肉を裂き、背骨や神経をズタズタにする場合があるからです。血だらけの主イエスの姿を見せれば、ユダヤ人指導者たちの怒りやねたみが収まるのではとピラトは願いましたが、期待は裏切られました。

 旧約聖書では、罪のためのいけにえの動物が、傷なく、しみのない動物でした。同じように、主イエスも、何の罪のないお方であるゆえに、贖いとなれるのでした。

 主イエスさま、ありがとう。私の罪のために、罪のないあなたが身代わりに鞭打たれて下さって。私の罪の罰を体で受け止めて下さって。私は心からそう思います。



2、十字架

 共観福音書にあるが、ヨハネの福音書にない事柄を挙げてみましょう。クレネ人シモンが十字架を肩代わりしたこと、群衆から嘲弄されたこと、わが神わが神なぜお見捨てになったのですかという主イエスの言葉、左右にいた犯罪人の言動、百人隊長の証言、地震や裂かれた神殿の幕、などについてあえて書いていません。

 これらを見るとヨハネの意図は明確です。主イエスがたまたま苦しみを受けたのではない。主イエス自ら十字架を選び、人々の罪の贖いのため苦しみを主体的に受けられたと読めます。

 一方、ヨハネだけが書いている事にも注目しましょう。「ユダヤ人の王」との看板が3か国語で書いてあったこと、主イエスの母マリヤを弟子ヨハネにゆだねたこと、「完了した」との言葉、槍で脇腹を刺すと血と水が出たこと、などです。

 ヨハネは、十二弟子で唯一、主イエスの十字架の至近距離まで近づいた人でした。流れ出た血と水(34節)を自分の目で見て、「それをに目撃した者があかしをしている」(35節)と述べています。

 主イエスがユダヤ人の王であることを3か国語(20節)で書かれてあったことは、当時のローマ帝国の西の公用語がラテン語で東がギリシア語であったことから、主イエスこそまことの王であると世界中に宣言したに等しいと、ヨハネは読み取ったのでしょう。

 それで、大ぜいのユダヤ人がこの罪状書きを読んだ。イエスが十字架につけられた場所は都に近かったからである。またそれはヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語で書いてあった。(20節)

 主イエスは、背中の激痛と手足の釘の痛みに耐えながら、母のことを思いやり、弟子のヨハネに母の世話を任せると告げました。ヨハネもマリヤを自分の実の母のようにして最後まで看取るとこの時決めました。十字架に遭遇した者は、誰かと深く結びつき、誰かの重荷を負うことを嫌いません。

 それからその弟子に「そこに、あなたの母がいます。」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った。(27節)

 ヨハネにだけある「完了した」との最後の主イエスの言葉を考えましょう。
 主イエスの逮捕、裁判、鞭打ち、十字架の死に至るすべてのプロセスを、主イエスは自ら引き受け、すべての苦しみを味わい尽くし、罪の贖いのわざを完全に成し遂げたと読めます。私たちの罪がどんなに深くとも、主イエスが罰を代わりに受けて、死んで下さったので、もはや、何も必要としないのです。

 イエスは、酸いぶどう酒を受けられると、「完了した。」と言われた。そして、頭を垂れて、霊をお渡しになった。(30節)




3、変えられた二人

 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。(38節)

 アリマタヤのヨセフは、共観福音書においては、有力議員とか金持ちとか正しい人と書かれてありますが、隠れキリシタンだったとヨハネは言い切りました。ユダヤ人を恐れていた男が、大胆にも、主イエスの遺体の埋葬をすると言い出したのです。

 ニコデモについても、「夜イエスのところに来たニコデモ」(39節)と意気地のない姿を暴露していますが、そんな男が公に埋葬を手伝い、高価な没薬をささげたことが分かります。
 この二人の男は、なぜ変化したのでしょう。それは、主イエスの十字架の意味が分かったのです。私のために、主イエスは苦しみを受けられたと心の底で分かったのです。それで隠れキリシタンを止めて、はっきりと主イエスの弟子であることを明らかにしたのです。
 主イエスの十字架は、我がため、と理解できたのです。

 中国で地震が起き、救助隊が生存者を捜していた時の話を知りました。赤ちゃんが奇跡的に生き残っており、救助隊員は喜びました。そばにいた女性は死んでいましたが、手にある携帯電話を読んだ救助隊員は涙を禁じえず、同僚隊員にもそれを見せ、皆が涙したと言います。その携帯電話には、あなたがもし助かったら、お母さんがあなたを愛していたことを忘れないでね、と書かれてあったそうです。恐らく、建物が崩れてくるとき、母親が背中をまるめてわが子を守ったのでしょう。背骨や内臓の激痛で気を失う前に、母はテキストを残したのですね。

 「完了した」と、主イエスはテキストを残しました。しっかり受け止めましょう。



→あなたの番です
 □正しい人が私の身代わりになってくれた。
 □救いに必要なすべての事は完了した。
 □あなたも、アリマタヤのヨセフになれる。