ヨハネ21:1~25  テベリヤの湖畔で



 主イエスは、誰に、どのように、使命を託すのでしょう。今日は使命について考えましょう。

1、岸辺に立つ主イエス

主イエスの指示があり(マタイ26:32)、ペテロたちはエルサレムからガリラヤに戻りましたが、まだ主と会えませんでした。主イエスに会えない宙ぶらりんの浪人状態で、不安にかられたのかもしれません。

シモン・ペテロが彼らに言った。「私は漁に行く。」彼らは言った。「私たちもいっしょに行きましょう。」彼らは出かけて、小舟に乗り込んだ。しかし、その夜は何もとれなかった。(ヨハネ21:3)

ペテロは、主イエスに招かれて網を捨てて主イエスの弟子になりました。ペテロはその網を再び拾い上げて漁を始めました。信仰も同じように、後戻りすることがあります。昔の生活態度に戻ってしまうこともあります。そんな時は、夜通し働いても一匹も取れません。魚が取れないことも、魚が取れることにも、主の御手があるのです。「わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないのですから」(ヨハネ15:5)を思い出すます。
体は冷え、疲れきり、がっかりしていた時です。その時、主イエスは岸辺に立たれました。

夜が明けそめたとき、イエスは岸べに立たれた。けれども弟子たちには、それがイエスであることがわからなかった。イエスは彼らに言われた。「子どもたちよ。食べる物がありませんね。」彼らは答えた。「はい。ありません。」(4~5節)

あなたは疲れていますか。心が冷え切っていますか。希望を失っていますか。そんな時に、復活された主イエスが、あなたの岸辺に立っています。

捜したのに見つからない。苦労したのに、報われない。時間通りに行ったのに、門が閉ざされた。愛して愛して愛したのに、愛が届かない。そんな時、主イエスはそばにいます。



2、使命を託す

 たぶん、ガリラヤ湖漁業組合の一網最高の水揚げだったのでしょう、ていねいに153匹を数えました。その後、主イエスが準備されたおいしい朝食を食べ、3年間のありふれた日常が戻ってきました。そうだ、復活された主は、十字架の後も、共にいてくれたのだ。
主イエスは、あなたの朝のディボーションの時間においしくて力になる食事、つまり、みことばを用意してくれています。「さあ来て、朝の食事をしなさい」(12節)

彼らが食事を済ませたとき、イエスはシモン・ペテロに言われた。「ヨハネの子シモン。あなたは、この人たち以上に、わたしを愛しますか。」ペテロはイエスに言った。「はい。主よ。私があなたを愛することは、あなたがご存じです。」イエスは彼に言われた。「わたしの小羊を飼いなさい。」(15節)

わたしを愛してますか。夫婦間でこの質問が出る場合は要注意、喧嘩開始の合図です。主イエスはこの質問の大前提を持っておられます。ペテロが、失敗をしても、ペテロのほうから謝罪できなくても、あなたへの愛は変わらない、という大前提があるのです。

主イエスが3度同じ質問をされた時、ペテロは心を痛めました。3度も同じことを言わなくてもいいのに。でも、その瞬間、主イエスの意図が分かったのでしょう。3度主イエスを知らないと言ってしまった過去を、主イエスが洗い流し、やり直しができるように、3度愛してますと言えるようにしてくれたのです。

はい主よ、私はあなたを愛しています。人生の再出発には、愛が不可欠です。主イエスを愛する愛からすべては始まります。不完全でも、小さくてもいいのです。まず、主イエスを愛しましょう。「私があなたを愛することは、あなたがごぞんじです」

ペテロの人生で、この瞬間が最も心が美しくて謙虚になった時です。「砕かれた、悔いた心」(詩篇51:17)。最も良い人になるのは、成功した時ではなく、砕かれている時です。

主イエスは、そんな状態のペテロに、使命をはっきりと告げられました。罪を意識できない人や、自分の弱さや醜さを知らない人に主イエスは大切なミッションを任せません。
私は汚れてます。私は不十分です。私は罪人です。主イエスを愛する愛はこれだけしかありません。過去に失敗を何度もしています。私ひとりでは何もできません。そういう人を主イエスは選らばれます。そして、明瞭に言われのです。わたしの羊を飼いなさい。(15、16、17節)

 朝の静けさの中で、ペテロは主イエスから使命を受けました。あなたは、どんな使命を主イエスからもらいましたか。




3、他人を見るな

 ペテロが自分の意図しない場所と時と方法で死ぬ、と主イエスによって予告され(18~19節)、心を引き締めたはずですが、では、ヨハネはどうなりますかと尋ねたのです。ペテロらしい反応で苦笑しますね。

ペテロは振り向いて、イエスが愛された弟子があとについて来るのを見た。この弟子はあの晩餐のとき、イエスの右側にいて、「主よ。あなたを裏切る者はだれですか。」と言った者である。ペテロは彼を見て、イエスに言った。「主よ。この人はどうですか。」イエスはペテロに言われた。「わたしの来るまで彼が生きながらえるのをわたしが望むとしても、それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」(20~22節)

 主イエスはきっぱり言われました。あなたはあなた、人は人。他人は何の関わりもない。

 パウロは異本人への使徒としての使命が与えられました(使徒9:15)が、ペテロは羊を飼うことです。つまり、羊であるクリスチャンを守り、育てることです。
 あなたは、この二つの切り口で言えばどちらの使命を受けていますか。主イエスを知らない人々に福音を伝える人ですか、信者を励まし育てる方ですか。

 ある母と娘は犬猿の仲でした。相互に顔を見たくもない程です。母親が第4期の癌でホスピスに入り、身辺整理のために自宅に戻った折のことです。クリスチャンであった娘は母親を温かく受け入れ、3時間、親子水入らずで過ごしました。本人の希望でデパートの最上階のレストランにも行きました。そこで、寿司一人前をペロリと食べました。病院では、お粥二口しか喉を通らない人に何かの変化が起きました。お母さんは主イエスを信じました。そのあかしに洗礼を受け、まもなくして天に召されました。
 娘さんは、自分に与えられた使命が、お母さんと若いすることであり、主イエスの福音を伝えることだと認識したのだと私は推測します。誰も知らない3時間の間に、娘さんが今までの事柄を心から謝罪し、お母さんもそれを受け入れ、二人の距離が一挙に縮んだと思うのです。

 あなたも、隣の芝生は見ないことです。あなたには、あなたの道があります。あなたらしく、主イエスから与えられた使命を果たしていきましょう。

 「それがあなたに何のかかわりがありますか。あなたは、わたしに従いなさい。」

→あなたの番です
□弱り果てた朝、主イエスはあなたの岸辺に立つ
□砕かれた人が、主から使命をいただく
□周囲を見ずに、主イエスに従う