第1テサロニケ4:1~18 きよさと再臨


 二つの助言が必要だとパウロは考えました。
 第一に聖く生きること、第二に再臨の主に会う備えをすることです。


1、聖く生きる

前半の中心聖句は3節です。「神のみころは、あなたがたが聖くなることです。」

神のみこころは、あなたがたが聖くなることです。あなたがたが不品行を避け、各自わきまえて、自分のからだを、聖く、また尊く保ち、神を知らない異邦人のように情欲におぼれず、また、このようなことで、兄弟を踏みつけたり、欺いたりしないことです。なぜなら、主はこれらすべてのことについて正しくさばかれるからです。これは、私たちが前もってあなたがたに話し、きびしく警告しておいたところです。神が私たちを召されたのは、汚れを行なわせるためではなく、聖潔を得させるためです。(3~7節)

 3節の「不品行」という言葉は品格のある訳語ですが、実感のない言葉です。原文のギリシア語ではポルネイア、ポルノの語源です。英語ならsexual immoralityとなります。
 聖く生きるとは心の問題だと思いがちです。でも、ここでは違います。からだの問題なのです。具体的な生活習慣のことなのです。それで、「自分のからだを、聖く、また尊く保ち」と命じたのです。

 テサロニケは繁栄した港町で、商業や政治の中心地でした。つまり、性道徳が乱れやすく、家庭にも性的罪の余波が襲っていたのです。
 性的な誘惑に負けない男性は、この世に一人もいません。カエサルがクレオパトラの誘惑に乗り、エジプトの王位継承問題に深入りしたことは有名です。男性は視覚から誘惑されます。誰も見ていないなら、後で問題にならないなら、お金で済むなら、一度限りなら、そういう場面で男性は性的な罪を犯します。

クリスチャンになっても、不倫を続ける、援助交際をする、不適切な場所に出入りするなら、それはパウロが6節で指摘するように、クリスチャンの友を踏みつけて裏切ることになります。性的な罪は自分ひとりの問題で済まずに、配偶者を苦しめ、家族を巻き込み、平穏な暮らしに嵐を招き入れてしまいます。

ところで、オランダはネーデルランド(低い土地)と呼ばれ、九州くらいの広さで、国土の4分の1が海面下にある国です。
1916年に大洪水に襲われ、第一次世界大戦時に食糧不足を経験したため、1927年から5年をかけて大掛かりな防波堤の建設を行い、かつての湾を淡水湖にし、埋立をして耕地を作りました。幅90m長さ32キロという世界最大の堤防が、国民に安定した生活をもたらしたのです。今も、海面が人々の目線よりもはるかに高い状態ですが、オランダ人はその地に住むという毅然とした決意を持って生きています。

強引な類比だと叱られるかもしれませんが、オランダの人々の生き方と、クリスチャンの生き方に、私はある種の共通点を感じるのです。
この世界には性的誘惑が満ちていて、放置すればその洪水に飲まれてしまいます。自分をきよく保つ方法は守りに徹することだと思うのです。パウロが、「避ける」、「保つ」「おぼれず」、「しない」、という言葉を使った理由が納得できます。ヨセフも主人の妻から誘惑を受けた時、ひたすら逃げました。(創世記39:18)
愛する妻や配偶者、家族や親友の顔を思い浮かべ、彼らを決して裏切るまいという態度も心の堤防になるでしょう。
強固な堤防を作りましょう。それが、あなたと、あなたの最愛の人たちを守る唯一の方法です。周囲の人々が何と言おうが、決然とした態度を取りましょう。もし罪を犯し浸水箇所ができたとしても、何度でも悔い改め、水をかき出し、修理しましょう。

毎日の生活で、体の聖さを保ちましょう。あなたにとっての堤防とは何ですか。何をすることですか。何をしないことですか。



2、再び来られる主イエス

13~18節は神学用語で「携挙」と呼ばれる内容です。その日が実際はどのようになるのか詳細は分かりませんが、主イエスは必ず来られます。

主イエスが再びこの世界に来られるという予告は、私たちが思う以上に聖書に多く書かれています。チャック・スウィンドルによると、主イエスが再び来られるという言及は新約聖書で300回箇所あり、30節に一度出てくる勘定だといいます。
パウロも、テサロニケの手紙で何度も触れています。
 「イエスが天から来られるのを待ち望む」(1:10)
 「主イエスが再び来られるとき」(2:19)
 「主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき」(3:13)
 「主イエス・キリストの来臨のとき」(5:23)

テサロニケのクリスチャンは迫害のゆえに辛い毎日を過ごしていました。迫害が原因で先に死んでいった仲間がいて、悲しみに沈んだ人もいたのでしょう。再び主が来られることを期待するあまり、生活に混乱がみられたのかもしれません。それで、「落ち着いた生活をすることを志し、自分の仕事に身を入れ、自分の手で働きなさい。外の人々に対してもりっぱにふるまうことができ、また乏しいことがないようにするためです。」(11~12節)とも命じています。

眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。私たちはイエスが死んで復活されたことを信じています。それならば、神はまたそのように、イエスにあって眠った人々をイエスといっしょに連れて来られるはずです。私たちは主のみことばのとおりに言いますが、主が再び来られるときまで生き残っている私たちが、死んでいる人々に優先するようなことは決してありません。主は、号令と、御使いのかしらの声と、神のラッパの響きのうちに、ご自身天から下って来られます。それからキリストにある死者が、まず初めによみがえり、次に、生き残っている私たちが、たちまち彼らといっしょに雲の中に一挙に引き上げられ、空中で主と会うのです。このようにして、私たちは、いつまでも主とともにいることになります。こういうわけですから、このことばをもって互いに慰め合いなさい。(13~18節)

 「私たちの主のみことばのとおりに言いますが」(15節)とあるのは以下のマタイの箇所だと思われます。ヨハネの福音書でも主イエスは再び来ると約束しておられます。

そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。(マタイ24:30~31)
 
わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。(ヨハネ14:2~3)

 この世界は不平等で、悪がはびこり、一部の者が弱者を抑圧し搾取しています。また、自分自身に目を向ければ、罪があり、自己中心で、誘惑に負けやすく、聖い生活に困難を感じます。
ですから、世界の問題も、私という問題も、どうしても最終解決が必要です。それが再臨の意義です。

希望ある未来が約束されています。主イエスが再び来るからです。
主イエスに出会う日から逆算するように今日を生きてみませんか。
主イエスに再会するのですから、今日、神の国の建設に携わりませんか。

→あなたの番です。
□性的誘惑に負けない堤防を作り、家族と自分を守ろう。
□再び来られる主イエスに会う備えをしよう。