第1コリント14:1~40 徳を高める


 14章でパウロは、かなり注意深く、言葉を選んで、異言の問題に触れました。

1、異言について

異言を話す者は、人に話すのではなく、神に話すのです。というのは、だれも聞いていないのに、自分の霊で奥義を話すからです。ところが預言する者は、徳を高め、勧めをなし、慰めを与えるために、人に向かって話します。異言を話す者は自分の徳を高めますが、預言する者は教会の徳を高めます。私はあなたがたがみな異言を話すことを望んでいますが、それよりも、あなたがたが預言することを望みます。もし異言を話す者がその解き明かしをして教会の徳を高めるのでないなら、異言を語る者よりも、預言する者のほうがまさっています。(2~5節)

異言という用語は、新約聖書において、使徒の働きに2度(使徒10:46、19:6)、それ以外は第1コリント14章だけで使われています。

 異言とは、聖霊の与える賜物の一つです。異言は、論理的な言葉の祈りとは違い、神の臨在を強く意識する中で霊によって(2、14節)神に祈る行為です。異言の祈りは、本人も他の人にも理解不能な音(8、11節)として発せられます。
 
 もし私が異言で祈るなら、私の霊は祈るが、私の知性は実を結ばないのです。(14節)

それで、もし私がそのことばの意味を知らないなら、私はそれを話す人にとって異国人であり、それを話す人も私にとって異国人です。(11節)

 もしパウロが異言を否定したり異言を禁止するなら、賜物を与えた神を無視することになります。また一方で、礼拝中に異言で祈る一部の人々を放置するなら、外部の人々に誤解を与え、宣教の妨げになります。ですから、かなりセンシテブな問題だったのです。

御霊の賜物は他者の益となる目的(12:7)で与えられますが、異言だけが自分の徳を高める特殊な賜物だと解説(2、4節)、パウロ自身も異言で祈れることを明かし(18節)、その有効性を認めつつも(5節)、異言の解き明かし者がいない場合の礼拝では悪影響(23節)になるので使用を控えるように教え(28節)、解き明かす者がいる時でも同時に語らず2~3人が順番にしなさい(27節)と具体的な解決策を提示しました。

私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝しています(18節)

ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかがはいって来たとき、彼らは、あなたがたを気違いだと言わないでしょうか。(23節)

もし異言を話すのならば、ふたりか、多くても三人で順番に話すべきで、ひとりは解き明かしをしなさい。もし解き明かす者がだれもいなければ、教会ではだまっていなさい。自分だけで、神に向かって話しなさい。(27~28節)

以上が14章の骨子です。




2、互いの益を目指す

 夫は妻の弱さや欠点を子供の前で指摘したり、馬鹿にすることが多く、基本的に傲慢です。妻は、そういう夫を軽蔑したり、下に見ていますが、心の中に隠しています。男も女も、高慢な心を持っていて、それがお互いを傷つけています。

異言問題の背後に隠れているのは、実は、霊的高慢の問題です。

異言の賜物を持つ一部の人はコリント教会の礼拝で大きな声で祈ったのでしょう。それはとても目立つ行為で、周囲のクリスチャンは彼らを特別に信仰深い人とみなしたと思われます。クリスチャンでない人や弱い人を配慮できないほど、霊的高慢が強かったのです。

優れた賜物があっても愛がないなら空しいとパウロは13章で語りましたが、異言の賜物を持つ人がその例の筆頭に挙げられていたことを思い出して下さい。

「人の異言や、御使いの異言で話しても、愛がないならやかましいどらや、うるさいシンバルと同じです。」(13:1)

あなたが異言の賜物を神から与えられているなら、14章を読み直し、異言についての理解を深め、パウロの指示に従いましょう。預言の賜物を求めましょう。(5節)

私たちも自分を見つめましょう。霊的高慢になる要素がありませんか。
知識の賜物、リーダーシップの賜物、賛美の賜物など、人の前に立ち、評価される賜物を持っている人は、霊的高慢の誘惑から守られるように心がけましょう。

「徳を高める」とはオイコドメオーというギリシャ語で、「家」と「建てる」の合成語です。私たちが高慢になるなら、周囲の家を壊すことになります。主から頂いた賜物を他の人(17節)や教会(4、5、12節)の徳を高めに積極的に用いましょう。

あなたがたの場合も同様です。あなたがたは御霊の賜物を熱心に求めているのですから、教会の徳を高めるために、それが豊かに与えられるように、熱心に求めなさい。(12節)

→あなたの番です
     霊的な高慢を避ける
     周囲の人を立てあげる人になる