詩篇36篇  寝台から、雲の高嶺へ


 人は二つに分けられます。ベッドの上で悪巧みをする人と、雲の高嶺を見上げる人です。


1、悪人の日常

 罪は悪者の心の中に語りかける。彼の目の前には、神に対する恐れがない。彼はおのれの目で自分にへつらっている。おのれの咎を見つけ出し、それを憎むことで。彼の口のことばは、不法と欺きだ。彼は知恵を得ることも、善を行なうこともやめてしまっている。彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。(1~4節)

 ダビデは、悪人の事を考えると心が暗くなりました。なぜなら、「神に対する恐れがない」(1節)からです。
 神を見上げる畏敬の念を持つか、持たないかで、人生は180度違います。神に対する恐れを持たないなら、すべてが自己中心になり、善を行う動機を見失い、不法と欺き事に関心が向かい、寝床で悪事を図る者になってしまいます。

 ある詐欺師は、お年寄りを対象に無作為に電話し、アルツハイマーの度合いを調べてだまします。「あなたが我が社に送って頂いた1200ドルの小切手ですが、額が間違っていました。古い小切手は返しますので、今そこで900ドルと書いて、ここちらに送って下さい。」という具合です。ひどい悪党です。
 
 まさに、「彼は寝床で、不法を図り、よくない道に堅く立っていて、悪を捨てようとしない。」(4節)の通りです。
こんな悪人でも、神を恐れ敬う心を持つなら考え方が変わり、人生をやり直せます。


2、恵みは天に

 アメリカで、子供の命を奪われた両親が、犯人に次の事を要求して裁判で受け入れられました。犯人は、その子の命日に1ドルのチェックを書いて被害者の両親に送付し、今後数十年間続けること。これは経済的な罰ではなく、自分の犯した罪を犯人に毎月思い出させたかったのです。これは恵みと正反対の世界です。

 主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。あなたの義は高くそびえる山のようで、あなたのさばきは深い海のようです。あなたは人や獣を栄えさせてくださいます。主よ。神よ。あなたの恵みは、なんと尊いことでしょう。人の子らは御翼の陰に身を避けます。彼らはあなたの家の豊かさを心ゆくまで飲むでしょう。あなたの楽しみの流れを、あなたは彼らに飲ませなさいます。いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。(5~9節)

 「主よ。あなたの恵みは天にあり、あなたの真実は雲にまで及びます。」(5節)パレスチナの気候はカリフォルニア南部とそっくりです。毎日が晴天なのです。ダビデは青空を見上げ、まるで神の恵みのように晴れ晴れして高いと感じました。
 今から3000年前の人々は自然界を良く知っていました。当時は天気予報もないし、動物の生態を紹介するテレビ番組もありませんでしたが、雲の種類も鳥たちの姿も良く分かっていたのです。

 層雲は霧のような雲で、高さは300mくらいです。羊雲と呼ばれる高積雲は富士山の高さくらい雲で、水のつぶでできています。すじ雲と呼ばれる巻雲は一番高い場所にできる雲で1万3千mの高さがあり、氷のつぶでできています。
低く暗い雲は雨をもたらし、積乱雲は竜巻や豪雨を連れて来るので、ダビデのイメージした雲はエベレストよりも高い高層の雲かもしれません。

 神を見上げ、畏敬の念を持ち、神の恵みの大きさを認めるなら、豊かな人生になります。

 「人の子らは御翼の陰に身を避けます。」(7節)とあります。ハトが両脇の雛を翼で覆い、雛たちが目を閉じて休んでいる写真を見たことがあります。雛は安心しきっています。今でも、雨や風や天敵から守るために親鳥は小さなヒナを翼の下に入れます。
ダビデは自分が弱いヒナだと自覚していました。神が守って下さる方だという確信がありました。今日、あなたも、神の御翼の陰に逃げ込みましょう。

 「いのちの泉はあなたにあり、私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。」(9節)とあります。ダビデにとって神は、いのちの泉のような方です。岩石だらけのパレスチナ南部の荒地では、泉は生命線です。夏に雨の一滴も落ちない地域ですから、川も流れていないので旅人の命を支えるのは泉だけ。神は、ダビデにとって尽きない泉なのです。



3、注いで下さい

 1994年から1995年、大リーグの野球選手たちは待遇改善を求めストライキをお行いました。野球チームのオーナーは、アマチュア選手を雇い、正式なユニフォームを着せてスタジアムで試合をさせました。ピッチャーの投げる球は遅く、バッターの打球は豪快なライナーやホームランになりません。でも、選手はきわめて楽しそうにプレーをしました。選手たちは、こんな素晴らしい球場で試合ができるなら、お金を払ってもいいと思うくらいでした。
 この選手たちの笑顔を見ると、恵みとは何かが分かるような気がします。恵みは、自分の能力や努力やきよさとは無関係に、一方的に与えられる神の愛、神の祝福のことです。
 へブル語で「ヘセド」という言葉が「恵み」と訳されています。ヘセドは、慈しみ、愛などとも訳されます。尽きない愛、耐えることのない愛、神の愛と言ってもよいでしょう。

 ダビデの祈りは、「注いでください」(10節)という言葉でまとめられています。英語の聖書では、continueという訳になっています。言語のマーシャフは、続ける、絶やさないという意味を持っています。私たちに一番必要なものは神の恵みです。神の恵みや愛が絶えず共にあることが、神から注ぎ続けていただくなら、私たちは生きていけます。私たちも同じように祈りましょう。

 2015年、サウルカロライナの黒人教会でバイブルスタディーの最中に白人青年が乱入し、9人を射殺する事件が起き、犯人は逮捕されました。裁判で、被害者の親や家族が証言に立ちました。「言い尽くせない悲しみを経験したが、犯人には神の恵みが必要だ。私は犯人を赦します」私はこの証言を聞いて驚きました。神の恵みを知っている人は、恵みを周囲の人に届ける人になるのです。

 神の恵みを見上げましょう。そして、恵みを人に分け与える人になりましょう。

 注いでください。あなたの恵みを、あなたを知る者に。
 あなたの義を、心の直ぐな人に。(10節)


 →あなたの番です
  □目を高く上げ、神の恵みを見上げよう
  □神の恵みを私に注いで下さい、私も恵みを届けます