創世記18:1~33 主の前に立つ


 今日は、次の二つの聖句に注目して下さい。
 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)
「アブラハムはまだ、主の前に立っていた。」(22節)

1、主に不可能なことがあろうか

主はマムレの樫の木のそばで、アブラハムに現われた。彼は日の暑いころ、天幕の入口にすわっていた。彼が目を上げて見ると、三人の人が彼に向かって立っていた。彼は、見るなり、彼らを迎えるために天幕の入口から走って行き、地にひれ伏して礼をした。(創世記18:1~2)

 アブラハムは、その3人が普通の人ではない、聖なる方であると直感的に分かりました。走って迎え、ひれ伏して礼をして、食事を召し上がってほしいと3人を招き入れました。アブラハムは、パンを焼き、子牛を料理するように命じ、自分自身でヨーグルトと牛乳を運び、食事が準備できると、主人のアブラハムみずからが給仕をしました。(3~8節)

 するとひとりが言った。「わたしは来年の今ごろ、必ずあなたのところに戻って来ます。そのとき、あなたの妻サラには、男の子ができている。」サラはその人のうしろの天幕の入口で、聞いていた。アブラハムとサラは年を重ねて老人になっており、サラには普通の女にあることがすでに止まっていた。それでサラは心の中で笑ってこう言った。「老いぼれてしまったこの私に、何の楽しみがあろう。それに主人も年寄りで。」(10~12節)

 見知らぬ3人のうちの一人は、アブラハムの妻の名がサラだと知っていました。サラは赤ちゃんの誕生の話を聞いて笑いました。アブラハムの最初の反応と同じです。(17:17)

 そこで、主がアブラハムに仰せられた。「サラはなぜ『私はほんとうに子を産めるだろうか。こんなに年をとっているのに。』と言って笑うのか。主に不可能なことがあろうか。わたしは来年の今ごろ、定めた時に、あなたのところに戻って来る。そのとき、サラには男の子ができている。」サラは「私は笑いませんでした。」と言って打ち消した。恐ろしかったのである。しかし主は仰せられた。「いや、確かにあなたは笑った。」(13~15節)

 サラは、ちょっと恐ろしくなって、笑ったことを否定しました。見知らぬ訪問者がいつのまにか、「主」という表現に代わっています。

 「主に不可能なことがあろうか。」(14節)

17章の中心テーマは、神が全能の神であるということでした。18章も、同じテーマを取り上げています。繰り返されるのは、私たちが忘れやすいからです。また、どうしても理解すべき重要な真理なので繰り返し語られるのです。

ある青年男性がギターを弾き始めました。彼は牧師の息子でした。牧師の息子のベーシストと牧師の息子のドラマーに彼は声をかけ、バンドをやろうよと熱心に誘いました。ボーカルも見つかり、曲を作り、活動を始めました。彼らの作った曲がプロサッカーチームの応援歌に選ばれました。主は素晴らしいです!やがて地域で有名なバンドになり、CDも発売するようになりました。「ナイトdeライト」というバンドのことです。
彼らの歩みを見ていると、主には不可能なことはありません、という言葉がじわっと私の胸に響いてきます。

あなたの番です。神は全能の神です。主に不可能なことはありません。私たちの具体的な生活の中で、神が働いて下さることを信じてみませんか。



2、アブラハムはまだ、主の前に立っていた
主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。アブラハムは必ず大いなる強い国民となり、地のすべての国々は、彼によって祝福される。わたしが彼を選び出したのは、彼がその子らと、彼の後の家族とに命じて主の道を守らせ、正義と公正とを行なわせるため、主が、アブラハムについて約束したことを、彼の上に成就するためである。」そこで主は仰せられた。「ソドムとゴモラの叫びは非常に大きく、また彼らの罪はきわめて重い。(17~20節)

 アブラハムは、世界の人々に祝福を与える者になるのです。また、多くの国民の父になるのです。そのために、神はアブラハムのマインドを変えようとされました。

悪徳の町で有名なソドムを一望できる場所まで主はアブラハムを連れて行きました。神はソドムの町を滅ぼすと言われました。アブラハムは、願いました。ソドムの町に正しい人がいるかもしれないので、その正しい人に免じて、滅ぼすのをお止め下さいと。

アブラハムは近づいて申し上げた。「あなたはほんとうに、正しい者を、悪い者といっしょに滅ぼし尽くされるのですか。もしや、その町の中に五十人の正しい者がいるかもしれません。ほんとうに滅ぼしてしまわれるのですか。その中にいる五十人の正しい者のために、その町をお赦しにはならないのですか。(23~24節)

とりなしの祈りは、自分以外の誰かのことを心にかけて、何らかの改善や癒しと祝福を願う祈りです。アブラハムは、神の前に立ち、自然にとりなしの祈りをしていたのです。

とりなしの祈りを続けているうちに、祈りの内容が変化しました。正しい人の数を50人から10人にまで引き下げて神に懇願しました。(28~32節)
私たちのとりなしの祈りも、繰り返し祈っていると祈りの内容が変化します。そこに意味があります。
とりなしの祈りとは、主の前に立って、その人の祝福と助けと改善のために祈ることです。

アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

あなたの番です。祈りのノートを作り、祈りの課題を書き込み、定期的に誰かのために祈りましょう。私の祈りのノートには、たくさんの祈りの課題や、祈り続けている人の名前がいっぱい書いてあります。願った祈りがかなえられると、印を付けます。年末に祈りのノートを見直す時、あらためて主のすばらしさを賛美できます。

 まず、夫や妻のために心を込めて祈りましょう。身近過ぎて祈るのを忘れている場合がありますが、第一に祈るべき相手です。子供のためにも祈りましょう。あなたが祈らなければ、世界の誰があなたの子供のために祝福を祈れるでしょう。
 あなたの友達や教会の仲間のために祈りましょう。誰かの深い悩みをあなたが知らされたのなら、それは、とりなしの祈りをするためです。
 こうして、とりなしの祈りの輪を広げていくなら、日本のため、アメリカのため、世界のために祈れます。あなたも、世界の祝福を祈れるのです。

 右近勝吉さんは元祖便利屋として知られています。高校時代にイエスさまを信じてクリスチャンになりました。ある日、精神病院の院長から連絡が入り、右近さんに会いたい患者がいるとのことでした。15年間、毎日壁に向かって独り言を言い続ける人がテレビで右近さんを見て興味を持ったといいます。訪問して、病院の中庭で缶ジュースを飲みながらその男性と話しましたが、ほとんど会話になりませんでした。でも、右近さんは最後にその青年のために声を出して祈ってあげました。病がいやされますようにと心を込めて主にお願いしたのです。
 3か月後、その青年から右近さんの事務所に電話が入りました。病院を退院し、掃除会社で働いています。あの時は、本当にありがとうございました。嬉しい報告が来ました。

 主は、とりなしの祈りに答えて下さる方です。そして、私たちは皆、誰かのためにとりなしの祈りをするように造られたのです。
 祈りのノートを作り、とりなしの祈りをずっと続けましょう。

 アブラハムはまだ、主の前に立っていた。(22節)

→あなたの番です
 □主に不可能はない □誰かのために主の前に立って祈る