創世記23:1~20  サラの墓


1、見送る

サラの一生、サラが生きた年数は百二十七年であった。サラはカナンの地のキルヤテ・アルバ、今日のヘブロンで死んだ。アブラハムは来てサラのために嘆き、泣いた。(創世記23:1~2)

 アブラハムは10歳年下の妻に先立たれました。約束の地にやって来て約60年間、苦楽を共にした妻です。アブラハムは胸をたたいて嘆き、泣きました。
 創世記には多くの人が生まれ死んだと書かれていますが、23章になって初めて、サラの死が大きな悲嘆と共に記録されました。

 日本の交通事故死は一年間に4200件ですが、家庭の風呂での事故死は年間14000件にのぼります。びっくりする数です。1月から2月の事故が多く、65歳以上の人が心臓発作などで入浴中に亡くなっています。死は、私たちのすぐ隣りにあります。

 あなたも私も生きている限り身近な人の死を経験します。亡くなる人が、自分の親であっても、兄弟でも、自分の子供であっても、親友でも、恩師でも、私たちは死んで行く人を見送らねばなりません。葬儀に出席したり、喪主になるということ、それは偶然とか災難ではなく、私たちの人生の一部なのです。それが生きるということです。
 死には、予定通りの死も、納得できる死も、幸せな死もありません。必ず涙と別離の苦悩があります。自分の番が来るまで、死者を見送りながら私たちは生きていくのです。

亡くなった人を悲しみ、見送ることは、私たち人間の務めです。



2、土地売買

それからアブラハムは、その死者のそばから立ち上がり、ヘテ人たちに告げて言った。「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが、あなたがたのところで私有の墓地を私に譲っていただきたい。そうすれば私のところから移して、死んだ者を葬ることができるのです。」(3~4節)

23章では、サラの埋葬地を手に入れるプロセスが書かれています。墓地となる土地が合法的に取得したことを証明するためにあえて詳細に記述しています。

羊と山羊を飼う遊牧民は、えさとなる牧草を求めて季節ごとに移動するので広大な土地を必要とし、テント住まいを余儀なくされます。そんなアブラハムが初めて買い求めた土地がサラの墓となる土地でした。

先住民のヘテ人は、アブラハムを尊敬しており、最上の土地を無償で譲ると申し出ましたが、アブラハムは代金を払うことにこだわりました(8節)。ヘテ人のエフロンが提示した銀400シェケルをアブラハムは支払いました。(15~16節)

町の門というのは当時の政治・経済・司法を行う所で、町の有力者が大事な取り決めを行う場所でした。証人たちの前で行われた売買なので正式な土地取得が成立したのです。

その町の門にはいって来たすべてのヘテ人たちの目の前で、アブラハムの所有となった。こうして後、アブラハムは自分の妻サラを、カナンの地にある、マムレすなわち今日のヘブロンに面するマクペラの畑地のほら穴に葬った。こうして、この畑地と、その中にあるほら穴は、ヘテ人たちから離れてアブラハムの私有の墓地として彼の所有となった。(18~20節)

アブラハムは、正式な手続きにのっとって土地を所有しました。

1986年1月、スペースシャトル・チャレンジャー号の打ち上げが迫った時、NASA当局と部品メーカーの意見が衝突しました。ロケット燃料タンクのゴム製品に強度不安があるとして部品メーカーの技術者らが打ち上げ延期を申し出ました。いわゆる「オーリング」と呼ばれる部品は寒さに弱く、打ち上げ日が零度を下回ったことで難色を示したのですが、 NASAや部品会社の幹部は強行し、打ち上げ73秒後に爆発しました。その技術者の日一人ロジャー・ボアジョリーはクリスチャンでした。責任ある仕事、正しい仕事をしましたのです。

取引や仕事において正しく行うということは、簡単に見えて、実は難しいことです。
正しく生きましょう。正しく商売しましょう。正しく仕事を行いましょう。



3、旅人で寄留者

「私はあなたがたの中に居留している異国人ですが」(4節)

アメリカに住む我々日本人は、アブラハムの言葉に共感を寄せるでしょう。アメリカにおいて「ガイジン」とは私たち日本人のことです。
立場の不安定な異国人のアブラハムはヘテ人に頭を下げ、墓地に使う土地を譲って下さいと言わなければなりません。400シェケルが相場より高いとしても、その額で買うしかありません。(エレミヤ32:9によると、預言者エレミヤは17シェケルで畑を買っています)

 マクペラのほら穴は中央高地のヘブロンにありました。この土地は、将来、アブラハムの子孫がパレスチナの土地全部を所有するための、手付金的な意味を持っています。
 
 サラが葬られた後、アブラハムも約40年後に同じ墓地に葬られました。彼らの息子イサクも、孫のヤコブも同じ墓地に葬られました。(創世記25:9、50:13)

 ヘブル人への手紙では、アブラハムらの歩みを以下のように総括しています。

 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。(ヘブル11:13)

 しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。(ヘブル11:16)

 旅の恥はかきすて。そういう無責任な人は非難されますし、クリスチャンとしてふさわしい態度ではありません。たとえ旅人であっても、一時寄留者であっても、出会う人々に誠実に接し、その国の市民権を持つ者のようにふるまいましょう。

 私たちの人生も、アブラハムの人生と重なります。私たちが所有する土地や財産は、私たちが生きている間だけ私たちのもので、管理運営を一時的に任されているのです。今、この地に生きるということは、寄留者でありながら、まるでその国の古くからの市民のように生きることです。それが、永遠の故郷を持つ者の生き方なのです。生かされている命を大切にして、身近な人に愛を届け、喜びと感謝を伝え、主イエスの福音を伝え、与えられた使命を全うしましょう。

 →あなたの番です
  □死者を見送ることが、生きている者の務め
  □公明正大に商売を行い、仕事をする 
  □旅人、寄留者として、与えられた命を大切に生きる