創世記22:1~24 試練。テスト。


 今日は試練について考えます。今、あなたは試練の中にいますか。

1、神から来た試練

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1~2)

信じられない主の命令です。たった一人の息子イサクを全焼のいけにえとして神にささげなさいという指示でした。アブラハムの子孫が夜空の星のように増え、世界の祝福の源になるという主の約束も、イサクが死ねば無意味になります。

 アブラハムは翌朝すぐに出かけました。(3節)ソドムが滅ぼされると聞いた時のアブラハムは、神に抗議し粘り強く交渉しましたが、今回は反発が見られません。その鍵は、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」という主のお言葉でしょう。イサクは、アブラハムとサラの間にやっと与えられた子でした。愛してやまない息子でした。たった一人の子供でした。神は、その事情を深く理解した上で命じておられるのだとアブラハムには分かったのです。

「神はアブラハムを試練に会わせられた」(1節)試練は、偶然ではなく、自分の失敗や罪の結果でもありません。本当の試練は神から来るのです。1節の「ナサー」というヘブル語は日本語で試練に会わせると訳され、英語訳では<テスト>ととなっています。

スタンフォード大学のウォルター・ミッシェルは、4歳の子供に興味深い実験をしました。後に、「マシュマロ・テスト」と呼ばれて有名になった研究です。机と椅子だけの部屋に、子供を招き入れ、マシュマロを一つ机の上に置いて、これを食べてもいいけど、私が用事で出かけて戻るまで15分待ったらもう一つ上げると伝えました。
30%の子供が我慢してもう一つのマシュマロをもらいました。後日、追跡調査をすると、我慢できた子供たちのSATテストのスコアが、我慢できずに食べてしまった子より平均210点上でした。学力の差は、幼い頃のIQの問題ではなく、セルフコントロール力の違いから出ているようです。つまり、この小さなテストが子供の未来の姿を予告していたのです。
テスト(試練)とは、将来の私たちの姿を教えてくれるのです。

さらに言うと、テストは将来の私たちの姿を作るきっかけになります。
あなたが相撲取りだとしましょう。怪しげな男が近づいて来て、「あんたは勝ち越しできる力がある。それで相談だが、もし明日の一番で負けてくれたら100万円あげるよ、どうだい悪い話じゃないだろう」と言ったとします。あなたなら、どうします。もしこのテストに失敗すれば、この力士の将来はどうなるでしょう。きっと、相撲賭博から足を洗えなくなります。テストは、それ自体が、明日のあなたを方向づけます。

本当の試練は神から来ます。その試練によって私たちは練りきよめられ、鍛えられ、さらに輝きを増し、最終的には神の栄光をあらわすことになります。


2、モリヤの地へ

 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(7~8節)
 
 いえにえの羊はどこにあるのかとイサクに聞かれると、アブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」(8節)と答えました。これが、アブラハムの信仰だったのです。
 アブラハムは指定の場所に着くと、石で祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縄でしばり、その上に寝かせました。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(10~12)

 アブラハムが刀を振り下ろそうとした瞬間、主の使いが呼び止めてイサクの命は助けられました。

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。(13~14節)

パウロは、「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)と書いていますが、主の山に備えあり、と同じ意味ですね。

あなたの試練が一瞬であっても1年の長期に及んだとしても、アドナイ・イルエ、脱出の道は必ずあります。


3、神の友となったアブラハム

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(15~18節)

「ひとり子を惜しまなかった」(16節)、「あなたがわたしの声に聞き従った」(18節)というアブラハムの信仰と姿勢を主が高く評価されました。

アブラハムが受けた試練はアブラハム固有のもので一般化できません。自分の子供を殺しなさい、という教えであるはずがありません。普通に考えるなら、アブラハムが行おうとしたのは子殺しで、世間でも、また聖書でも厳に禁じられている行為です。
ただ一人アブラハムと似た事をされた方がいます。父なる神です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、父なる神は御子イエスの命を私たちにお与えになりました。

創世記22章の出来事は、十字架において父なる神がなさろうとしていたことを、予告しておられたのだと私は思います。モリヤの地はエルサレム、4節の「3日目」という言葉は3日後の復活を連想させ、イサクも主イエスもひとり子なのです。

アブラハムは、父なる神の心の痛みを体験した地上でただ一人の人物になりました。後にアブラハムは神から「わたしの友」(イザヤ41:8)と呼ばれるようになったのは、この経験ゆえだと思われます。
キリストの十字架の苦難を描いた映画「パッション」で、主イエスが息を引いた後、天からの視点で一粒の水滴が落ちる場面がありましたが、父なる神の涙を象徴していたのでしょう。

さて、アメリカでは親が子供に運転を教えますが、私も娘に縦列駐車や車庫入れを教えました。要領がつかめないので、「ここで、何度でも練習しろ」と短気をおこして縁石に座っていたこともありました。
実地試験本番の日、私は娘を試験場(DMV)に連れて行き、近くの図書館で結果を待っていました。「主よ、テストに合格させて下さい。でも、不十分ならきっぱりと落として下さい。でも、やっぱり合格させて下さい。」とわけの分からない祈りを祈っていいると、娘が戻ってきて合格したというのです。「縦列駐車をやったか?」「うまくできた」「どうしてできたんだ」「お母さんから、コツを教えてもらって、その通りやったらできた」ハレルヤ!主の山に備えあり。娘は、テスト本番で、生まれて初めて縦列駐車を成功させたのです。
親は子供のテストの時、子供の成功を心から願います。神も、アブラハムが苦しいテストに合格し、将来の信仰姿勢を強固にしてほしいと熱烈に応援しておられたはずです。

 あなたは、今、試練の中にいますか。それなら、神の道を選びましょう。肉体的にも精神的にも経済的にに辛いかもしれませんが、必ず、主の山には備えがあります。試練のプロセスを通して、あなたはもっと愛の人、信仰の人、キリストに似た者に変えられます。

 →あなたの番です
  □試練は、私たちを磨き、神の栄光をあらわす
  □アドナイ・イルエ、主の山には備えがある