詩篇52:1~9  神の恵みは、いつも、あるのだ


 詩篇51篇は罪を悔い改めた詩篇でしたが、詩篇52篇はその逆です。冷酷で、罪を認めないドエグという人物へのさばきの歌が詩篇52篇です。表題に「ダビデのマスキール」とありますが、マスキールは教訓的内容を持つ詩篇と理解されています。

1、悪を誇るドエグ

なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。
欺く者よ。おまえの舌は破滅を図っている。さながら鋭い刃物のようだ。
おまえは、善よりも悪を、義を語るよりも偽りを愛している。セラ
欺きの舌よ。おまえはあらゆるごまかしのことばを愛している。(詩篇52:1~4)

 ダビデは、ドエグという男を念頭に置いて、この詩篇を書いています。
 「サウルの牧者たちの中のつわもの」(第1サムエル21:7)と言われたドエグは、普通のユダヤ人以上に管理能力に優れた外国人で、サウルの家畜管理を任されました。「勇士よ」と呼ばれるほど武勇にも優れたものがあったのでしょう。

 当時ダビデはまだ若く、サウル王に嫉妬され、命を狙われていました。ダビデは、ノブという町の祭司アヒメレクを訪ね、パンと武器をもらい受けて荒野に逃げました。そこに居合わせたドエグは、サウロにその一部始終を密告したのです。その動機は、おそらく、昇進や昇給だったのでしょう。「彼こそは、神を力とせず、おのれの豊かな富にたより、おのれの悪に強がる。」(7節)とあることから、ドエグは富に執着していたようです。

 第1サムエル22章を読むと全体像が分かりますが、密告後、祭司アヒメレクと仲間の祭司たちがサウル王のもとに呼び出され王に厳しく追及されました。祭司アヒメレクは、王の婿、ダビデを助けるのは当然だと無実を主張しました。怒ったサウル王は祭司アヒメレクと祭司たち全員を殺せと命じましたが、近衛兵らは躊躇しました。サウル王はドエグに殺害を命じると、ドエグは平然と祭司ら85人を殺し、祭司の町ノブの女、子供、乳飲み子まですべてを虐殺しました。(第1サムエル22:20~23)

サウル王の怒りから想像すると、祭司アヒメレクがダビデに積極的に加担したことを印象づける虚偽の情報をドエグが伝えたと思われます。「欺く者よ」、「おまえの舌は破滅を図っている」、「欺きの舌よ」、「ごまかしのことばを愛している」とダビデがドエグの舌を責めている理由が分かります。
悔い改めを知らないドエグは、地面から根こそぎ引き抜かれる木のように神によって永遠にさばかれるとダビデは予告しました。

それゆえ、神はおまえを全く打ち砕き、打ち倒し、おまえを幕屋から引き抜かれる。
こうして、生ける者の地から、おまえを根こぎにされる。セラ
正しい者らは見て、恐れ、彼を笑う。(5~6節)

 あなたの周囲に、ドエグのような人がいますか。今までの人生で、ドエグのような人物に出会いましたか。もし本物のテロリストがあなたの教会に来て、主イエスの夢を見たので回心したいと言って来たらどうしますか。その話は信用してもよいのでしょうか。
 回心したパウロがペテロたち十二弟子に会いに来た時は、まさにパウロは危険人物でした。(使徒9:26~30)神の愛、神の恵みは、テロリストのようなパウロにも注がれていました。

 ダビデはドエグの行動を嘆きつつも、神の愛と神の恵みはドエグにさえも注がれていると述べています。「なぜ、おまえは悪を誇るのか。勇士よ。神の恵みは、いつも、あるのだ。」
1節)



2、悪者にも注がれる神の愛

しかし、この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ。
私は、世々限りなく、神の恵みに拠り頼む。
私は、とこしえまでも、あなたに感謝します。あなたが、こうしてくださったのですから。私はあなたの聖徒たちの前で、いつくしみ深いあなたの御名を待ち望みます。(8~9節)

 「この私は、神の家にあるおい茂るオリーブの木のようだ」と、ダビデは自分をオリーブの木にたとえました。オリーブは高木にはなりませんが、年輪が増すと幹が太くなり、ごつごつして味わいのある木になります。神の愛が太陽のように、神の恵みが雨のように降り注ぐので、自分は生かされている、自分は守られている、自分は実を結ぶようになったと、謙虚になって神をたたえているのです。自分の能力にではなく、金の力にではなく、ここに神に頼る人の姿がみられます。

 おろらくこの詩篇は、サウルに命を狙われ荒野を放浪している最中に作られたのでしょう。ひもじくて、明日の保障もなく、安心できる家もない時に、ダビデは自分が神の家に育つオリーブの木にされていると感じていたとは驚きです。残虐非道なドエグにさえも、「神の恵みは、いつも、あるのだ」(1節)と語るほど、ダビデは神の慈しみと恵みのリアリティーに圧倒されていたのです。

 主イエスも「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。」(マタイ5:45)と語っておられます。

 あるキリスト教のキャンプで、猫が非水洗トイレに落ちました。(ぼっとんトイレ)参加していた学生たちが猫を助けてほしいと、Y牧師に頼みました。Y牧師は覚悟を決めて汚物の中に降りて、猫に近づき、助け出しました。猫はお礼も言わず、むしろY牧師をひっかいて逃げて去りました。猫はY牧師の愛に気づきません。この猫、誰かに似ていませんか。

 今週は、私の上に注がれる神の恵みを意識し、ドエグのように人にも神の愛が注がれていることを意識して過ごしましょう。

 →あなたの番です
  □神の恵みは、いつも、あるのだ