詩篇67:1~7 私たちに、祝福を、与えて下さい


 詩篇67篇から、祝福の祈りにつて考えてみましょう。

1、祝福を祈る

どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、
み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。(詩篇67:1)

まず第一に、神のあわれみを求めて祈っています。あわれみとは何でしょう。神の愛です。神の優しさです。神は背いた者をもあわれんでくれます。私たちの咎に従って私たちを取り扱わない方です。罪深い者に対して、神はあわれみ深く、恵み豊かな方です。「とても私は神の前には立てる者ではない」と自分を責める人にも、神はあわれみのマントを着せてくれます。あわれみを求めましょう。

第二に、祝福を求めて祈っています。祝福とは、私たちの現実生活が豊かにされることです。当時で言えば、「地はその産物を出しました」(6節)とあるように、豊かな収穫は神の祝福の一つでした。病気が治る。ビジネスがうまく行く。家庭が穏やかで平安である。それらは神の祝福です。祝福を祈りましょう。

第三に、神の御顔を向けてくれるように祈りました。民数記6:24~26のアロンの祝福の祈りによると、祝福の源泉が神の御顔だと分かります。
神が私に向いてくれて、神の目が注がれていると分かるなら、神の愛を実感できます。そして、神の祝福を体感できます。

さあ、神の祝福を求めて祈ってみましょう。


2、世界のための祈り

それは、あなたの道が地の上に、
あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。
神よ。国々の民があなたをほめたたえ、
国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。
国民が喜び、また、喜び歌いますように。
それはあなたが公正をもって国々の民をさばかれ、地の国民を導かれるからです。
神よ。国々の民があなたをほめたたえ、
国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。(詩篇67:2~5)

 「それは、あなたの道が地の上に、あなたの御救いがすべての国々の間に知られるためです。」(2節)とあります。神は、イスラエルの民を奴隷状態のエジプトから救い出されました。その様子を他の国々の人が知るなら、神の救いが明らかになります。また、荒野で神がイスラエルの民を安全に導かれた工程で、神の道が人々に知られることになりました。さらに律法は神の道そのものです。

 これを私たちに適用するなら、こうなります。私のような罪人を神は愛してくださり、あわれみ、救ってくださり、祝福の人生に入れてくださった。私たちの救いの証しを語るなら、それを聞いた人は神を信じ、やがて神をたたえる人になるでしょう。

 「神よ。国々の民があなたをほめたたえ、国々の民がこぞってあなたをほめたたえますように。」3節と5節は同じ言葉が繰り返され、この詩篇の中心聖句になっています。
 詩篇67篇は、世界中の人々が神を知り、世界が神への賛美であふれる日を切に求めています。世界中のリバイバルを求める祈りです。
 私たちも、祈りましょう。私たちの家族みんながイエスさまを信じるように、友人や親戚や会社の仲間に福音が届くことを祈りましょう。南カリフォルニアに住む日本人、祖国日本の人々、アメリカ全体、世界のすべての人が神をたたえる日が来ますように。


3、私たちの祈り

興味深いことに、詩篇67篇と「主の祈り」の内容は良く似ています。
両方とも、世界の人々が神を賛美する日が来るように祈っています。また、日常生活に具体的な神の祝福が表れるように祈っています。さらに、祈りの主体が単数の「私」ではなく「私たち」という点まで同じです。

私だけに日ごとの糧を下さいと祈らず、<私たち>に与えて下さいと願うのが主の祈りです。私だけが祝福されるようにと祈らず、<私たち>を神があわれみ祝福し御顔を向けて下さるようにと願うのが詩篇67篇です。

あなたが、「私たち」と言う場合、誰を念頭に置いていますか。夫婦ならば配偶者が入っていますか。家族の全員が「私たち」に入っていますか。もっと範囲を広くして、友人、教会の仲間、職場の人々、コミュニティーに住む人、日本人、アメリカ人、世界の人まで「私たち」に入りますか。

 主イエスが話された<良きサマリヤ人のたとえ>を思い出して下さい。主イエスにとって誰が「私たち」なのかということが分かります。
 「私たち」という言葉を意識しつつ、その人々の祝福を祈りましょう。

「どうか、神が私たちをあわれみ、祝福し、み顔を私たちの上に照り輝かしてくださるように。」(1節)

 →あなたの番です
  □私たちを、あわれみ、祝福してくださいと祈ろう
  □国々の民がこぞって神をたたえる日が来るように祈ろう