ヘブル人への手紙


 信仰者が苦難に遭遇したら、どうしたらよいのでしょう。「ヘブル人への手紙」は教えてくれます、主イエスに目を留めよ、と。

1、主イエスこそ救い主

御子は神の栄光の輝き、また神の本質の完全な現われであり、その力あるみことばによって万物を保っておられます。また、罪のきよめを成し遂げて、すぐれて高い所の大能者の右の座に着かれました。(ヘブル1:3)

 ユダヤ人がクリスチャンになる。それは、昔も今も容易なことではありません。初代教会の時代、ユダヤ人がクリスチャンになると会堂から追放され、ユダヤ人コミュニティーで厳しい迫害を受けました。クリスチャンになったユダヤ人は、暴力、罵倒、捕縛、経済的損出を経験しました。(ヘブル10:32~34)

 ユダヤ人クリスチャンは、「押し流され」(21)、「不信仰の心」(3:12)になり、「確信を投げ捨て」(6:11、10:35)、「動揺」(10:23)し、「いっしょに集まることをやめ」(10:25)、「神の恵みから落ち」(12:15)そうになりました。そして、ユダヤ教の律法やいけにえに心が惹かれました。

 「ヘブル人への手紙」を書いた人物(著者不明)は、そうしたヘブル人に対して、主イエスに目を留めるように勧めました。主イエスは、旧約聖書が預言した救い主であり、「神の栄光の輝き」「神の本質の完全な現れ」(1:3)であり、「万物の存在の目的」(2:10)です。主イエスは、天使にまさり(1~2章)、モーセにまさり(3章)、ヨシュアにまさる(4章)のです。

また、やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所にはいり、永遠の贖いを成し遂げられたのです。(9:12)

大祭司のいけにえは不完全であるがゆえ毎年繰り返されました。主イエスの十字架はたった一度で私たちの罪を完全にあがない、罪の赦しを与えてくれました。

私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。(4:15)

へブル人への手紙においては、主イエスが完全な救い主であることを教えるだけでなく、主イエスが苦しまれたということに注目しています。主イエスは、「多くの苦しみを通して」(2:10)、「苦しまれたので」(2:18)「私たちと同じように、試みに会われ」(4:15)、「お受けになった多くの苦しみ」(5:8)とあるように、主イエスは誰よりも苦しを経験されました。その苦しむ主イエスの姿が、私たちを勇気づけてくれるのです。

1967年7月、17歳のジョニー・エレクソンは岸から遠く離れた海に浮かぶ浮台に立ち上がり、海に飛び込みました。ガツンという感じで何かに当たり電気ショックのような痛みを感じ、力なく浮いていました。幸い一命を取りとめましたが、首の骨を折り、首から下は全く動かなくなりました。病室で痛みと闘っていたとき、見舞いに来た友達が言いました。あなたは、十字架で釘づけられたイエスさまと同じだね。そう言われて、ジョニーははっとしました。主イエスは、私と同じ痛みを知っておられる。主イエスも自分で手合いを動かせなかった。それが彼女の慰めになり、やがて絵筆を口にくわえて絵を描いたり、歌ったりするようになり、クリスチャンとして多くの人を励ますようになりました。ジョニーは、苦しむイエスに慰められたのです。

苦しんでいるなら、主イエスに目を向けましょう。


2、忍耐

ですから、あなたがたの確信を投げ捨ててはなりません。それは大きな報いをもたらすものなのです。あなたがたが神のみこころを行なって、約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐です。「もうしばらくすれば、来るべき方が来られる。おそくなることはない。わたしの義人は信仰によって生きる。もし、恐れ退くなら、わたしのこころは彼を喜ばない。」私たちは、恐れ退いて滅びる者ではなく、信じていのちを保つ者です。(10:35~39)

 迫害を受けて苦しむヘブル人に、「へブル人への手紙」は忍耐を勧めます。人生には忍耐の時期があるのです。忍耐には価値があり、忍耐は報われます。主イエスも苦しまれ、忍耐されたのです。
 「約束された方は真実な方ですから」(10:23)、「約束のものを手に入れるために必要なのは忍耐」(10:36)だから、旧約聖書の信仰者たちは困難な中で忍耐し「信仰によって」(11:8)歩んだのだから、「主はその愛する者を懲らしめ」(12:6)るのだから、やがて「ご自分の聖さにあずからせ」(12:10)て下さるのだから、忍耐を持って信仰の道を進みましょう。

 あなたも、今が忍耐のしどころです。忍耐は永遠には続きません。


3、主イエスから目を離さない

こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、いっさいの重荷とまつわりつく罪とを捨てて、私たちの前に置かれている競走を忍耐をもって走り続けようではありませんか。信仰の創始者であり、完成者であるイエスから目を離さないでいなさい。イエスは、ご自分の前に置かれた喜びのゆえに、はずかしめをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されました。あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を忍ばれた方のことを考えなさい。それは、あなたがたの心が元気を失い、疲れ果ててしまわないためです。(12:1~3)

 あなたが疲れ倒れたときは、人を見ず、自分も見ず、ただイエスさまを見上げましょう。苦難の十字架の道を選ばれた主イエスに目を向けましょう。あなたが元気を失い、疲れ果て、自分を支えるものが何もないと感じた時でも最後に残る確実なものがたった一つあります。主イエスが、あなたのために死なれたという事実です。十字架です。主イエスの苦しみ、痛み、流された血、受けた恥は、すべてあなたのためです。

 キリストはいつも生きていて、彼らのために、とりなしをしておられるからです。(7:25)
主ご自身がこう言われるのです。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。」(13:5)
イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(13:8)

 →あなたの番です
  □主イエスは、まことの救い主
  □人生には忍耐の時がある
  □主イエスから目を離さない