マタイ6:11 日ごとの糧

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」(マタイ6:11)

主の祈りで初めての願い事は、食事を与えて下さいという祈りです。この部分には、どんな意味が込められているのでしょう。


1、神の助けで生かされている

 「日ごとの糧をきょうもお与えください。」(11節)

これは神の助けによって、私たちは生かされている、その事を自覚するための祈りです。

俺がお前たちを食わせてやっているんだ、と偉そうに言うお父さんたちがいます。一生懸命働いているのは分かりますが、働ける環境や健康が整って頑張れるのです。

夫や妻が働いていた会社が突然倒産した人もいるでしょう。リストラで、解雇された人もいるでしょう。病気や交通事故で、仕事を止めた人、学校を止めた人もいるでしょう。ストレスの蓄積で、うつ病になり、動けなくなる人もいます。地震などの自然災害や火事で家族を失い、家財を失った人もいます。家族の介護が必要になり、生活の仕方を変えた人がいます。
私たちが生きているのは当たり前ではないのです。神に生かされているのです。だから、謙虚になりましょう。神に信頼し、食べ物を与え、私を生かして下さいと祈りましょう。

「日ごとの糧」と言っているのはなぜでしょう。今日生きていくために必要なのは、わずかな食料です。30年分のコメをくださいとは祈る必要がないのです。私たちが生きていくために必要なものは、わずかな量です。

クリスチャンが食事の前に祈るのは、日ごとの糧を与えて下さいという主の祈りがかなえられた感謝です。
 
 昔は畑で種をまいて日ごとの糧を得ました。現代は、日ごとの糧をお金で買います。だから、今日生きていくためのお金を下さいという祈りにも主の祈りに含まれています。
沖縄の人は、「なんくるないさ」と良くいいます。なんとかなるさという言葉ですね。クリスチャンも信仰によって「主がおられるので、なんくるないさ」と言ってみましょう。
 主は、あなたの日常生活の一番大事なものを備えてくれます。



2、私たち
 「私たちの日ごとの糧」(11節)

 主の祈りの主語は誰ですか。私ではなく、私たちなのです。
 
 私だけ食べさせて下さい、という祈りではありません。私の家族の糧を与えて下さいという意味です。でもそれでは足りません。「私たち」を広げて考えると、周囲のみんな、敵、世界の人も食べられるように願うのです。

 私は無職になった時がありました。そんな時、70歳くらいのクリスチャン夫妻が私たちのことを心配して、ランチに誘って下さいました。お二人はお子さんの家の小さな部屋に住まわせてもらっていて、僅かな年金で暮らしていたのですが、日本食レストランで何でも食べなさいと勧めてくれました。私たち夫婦がそれぞれオーダーすると、お二人は「歳なので、あまり食べられないのです」と説明してから二人で一人前を注文されました。私も妻も、二人の温かい気持ちに感動して、涙がこぼれないようにするが精一杯でした。

 韓国の人は、食事時間以外でも「パモゴッソヨ?」と挨拶します。意味は、ご飯食べましたか?です。文化的歴史的な背景から出た挨拶なのだと思います。これをクリスチャン的に用いることもできます。日ごとの糧を得ることができましたか? 主の祝福や守りを頂きましたか? まだなら、ぜひご一緒に食べましょう、あなの祝福のため私にできることをさせて下さい。
 「私たち」という祈りの中に、他の人を招きいれてみましょう。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」

 →あなたの番です
  □主よ、あなたが私を生かして下っています   □主よ、これからも私の生活を支えて下さい
  □私も、私たちにも、日々の糧を与えて下さい