マタイ6:12  負い目を赦して

 主イエスが教えてくださった「主の祈り」シリーズの第4回目です。人の悩みで一番深刻なテーマです。赦せない悩みです。

1、赦してない自分

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 主の祈りのこの部分を祈ると、私たちはみな、少々後ろめたい気持ちになります。自分の心にささくれがあるのに気づきます。「この祈りを素直に祈れないな。私に悪い事をした人を赦していない。むしろ憎んでる。嫌っている。赦さないぞと決めている。」

 主の祈りにこの部分が加えられた理由は、まさに、そこにあると私は思います。赦していない自分に気づきなさい、と主イエスは言っておられれのです。

 赦すといっても、相手の悪事に賛成したり喜ぶわけではありません。そんな事は求められていません。悪は悪です。

赦さない人は、不幸の種を自分で毎日まいているようなものです。赦さないぞと思い続けるなら、憎しみと悪意のペンキで周囲を上塗りするようなものです。起きてしまった事は変えられません。相手が謝罪に来るわけでもありません。ならば、クリスチャンには二つの選択肢しかありません。
今赦すか、死ぬ直前に赦すか、です。

 官軍が庄内藩に勝利した後の西郷隆盛の采配は驚きです。1868年、庄内藩は降伏後、白装束で切腹を覚悟して表れました。西郷の判断は、死ぬ必要はない、でした。「敵となり味方になるのは運命である。一旦、降伏した以上、兄弟と心得よ。」と言って、官軍には丸腰になるよう命じ、庄内藩には帯刀を許したというのです。
 西郷隆盛は後半生に聖書を読む人になり、「敬天愛人」をモットーに掲げました。主イエスの愛と赦しを知り、実践したのかもしれません。

 あなたは、どうでしょう。赦していない人がいますか。主の前で静かな心になり、私もあの人を赦しますと、本音で言ってみましょう。そう言える日が来ますように。


2、赦された私

私たちの負いめをお赦しください。
私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。(マタイ6:12)

 負い目という言葉は、罪を意味しますが、借金や損害と考えると分かりやすいです。たとえ話をします。50万円の高級ブランドのバッグを買ったとします。とてもやわらかい皮で傷が付きやすいものです。バッグをテーブルに乗せ、洋服を着替えて出かけようとしていると、やんちゃな二人の息子が棒を持ってちゃんばらを始め、エイと切りつけたら、バッグが一文字に切れてしまいました。さて、あなたが母親なら息子を赦せますか。

 母親はものすごい剣幕で息子をしかり飛ばすでしょうが、赦すしかないのです。赦す理由は3つ。①息子は弁償するお金を持っていない、②自分の息子だから、③息子を愛しているから、です。

 私たちの赦しは、表面的は赦し、一時的な赦し、条件付きの赦しです。母の赦しは神の赦しに似ているところがあります。私たち人間には、自分の罪の弁償ができません。(死をもってわびるしかない)神は私たちをご自分の子として見てくださいます。そして、深い愛で私たちを愛していて下さいます。
神の赦しを体験した人は、身近な誰かを赦せるようになります。

 ある青年に赦せない人がいて、赦せない葛藤でつぶされそうになりました。牧師に相談したところ、主イエスはどう思っているのかな、と質問されたそうです。「赦せ」と言っていますと答えると、違うと牧師は言って、もっと深く考えなさいと促しました。しばらく考えた末に青年ははっとしました。赦せないでいる僕を見て、主イエスは僕に愛しているよ、と言ってくれています。牧師は、そうなんだよと答えました。主イエスの愛は、そのままを愛してくれる無条件の愛で、どんな罪も赦してくれる無条件の赦しなのです。

 →あなたの番です
  □赦せない人を、赦しましょう
  □赦せないあなたも、主イエスは愛しています
□あなたは主イエスに赦されています