マタイ13:53~58 ナザレ、主イエスの故郷

 ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの/よしや/うらぶれて異土(いど)の乞食(かたい)となるとても/帰るところにあるまじや

 これは、明治生まれの詩人・室生犀星の詩。彼は金沢に生まれ、20歳の頃から東京と故郷を行き来し、29歳で出版した詩集に載せてあるものです。多くの人も、郷愁と嫌悪という両面的な感覚を故郷に対して持っているものです。


1、立ち去るイエス

「これらのたとえを話し終えると、イエスはそこを去られた。」(マタイ13:53)

主イエスは、ガリラヤ湖畔での活動をひと段落させて、故郷に向かいました。
主イエスの宣教は以下のような行動と教えに特徴づけられます。

行動 弱い人に寄り添う愛の行動      
   病の人をいやす奇跡のわざ、奇跡
 教え 山上の垂訓 生き方、罪、希望、隣人愛など具体的な生活指針
   たとえ話  神の国のコンセプト、ビジョン、世界観


2、つまずく故郷の人たち

それから、ご自分の郷里に行って、会堂で人々を教え始められた。すると、彼らは驚いて言った。「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。この人は大工の息子ではありませんか。彼の母親はマリヤで、彼の兄弟は、ヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。妹たちもみな私たちといっしょにいるではありませんか。とすると、いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」(マタイ13:54~56)

 主イエスは、ふるさとのナザレに行くことにしました。ナザレの村は、ガリラヤ湖から見ると西側の丘陵地帯にあります。ナザレは旧約聖書には登場しない小さな村です。今回の故郷訪問は、母マリヤや弟たちが主イエスに会いに来たことに対する応答だと思えます。主イエスのふるさと伝道であり、家族伝道です。

イエスの話をきちんと聞いたのは初めてだったかもしれません。聞いたことのない内容だ。すごい話だ。深みがある。教えられる。感動する。真理をついている。人々は主イエスの話に驚きました。
ナザレの人々は、主イエスの「不思議な力」も目撃しました。主イエスは病人をいやしたのです。おそらく悪霊につかれた人も解放したのでしょう。

「この人は、こんな知恵と不思議な力をどこで得たのでしょう。」(54節)
 「いったいこの人は、これらのものをどこから得たのでしょう。」(56節)

教えを聞いて、不思議な力を見て、ナザレの人々は主イエスに対する信頼や尊敬や信仰を持ったでしょうか。いいえ。主イエスの知恵と奇跡の力がどこから来たのかという謎の解明に興味が移ってしまいました。どこから得たのか。誰から得たのか。どうやって得たのか。ナザレの人たちは、このような形で主イエスにつまずきました。


3、尊敬されなくても

こうして、彼らはイエスにつまずいた。しかし、イエスは彼らに言われた。「預言者が尊敬されないのは、自分の郷里、家族の間だけです。」そして、イエスは、彼らの不信仰のゆえに、そこでは多くの奇蹟をなさらなかった。(マタイ13:57~58)

尊敬できなければ、私たちはその人から何一つ学べません。主イエスへの尊敬がなけらば、奇跡を見ても深い教えを聞いても、信頼や信仰に結び付きません。それが、ナザレの人々の姿でした。

イエスさまですらうまくいかない事がある。それは、私たちにとっての慰めにもなります。一度語れば家族全員が救われるというほど家族伝道は簡単ではないし、だからといってあきらめることはない。神が働いて下さるように祈り、謙虚に、正直に語りましょう。

あなたの番です。あなたも、家族伝道、故郷伝道をしませんか。
家族に対しては、本物のあなたの姿が最も大きなあかしの力になります。あなたが経験した苦しみを語り、主イエスと出会ったことで人生が変えられたことを素直に語りましょう。言葉の巧みさとは関係なく、あなたの心の中で起きた真実な変化は、家族であればあるほど気がつきます。

キリスト者にとっては、故郷は遠きにありて祈るもの、そして訪れ、語るもの。

ご存知のように、イエスの弟達は主イエスの十字架と復活を経て信仰を持ちました。(使徒1:14)家族や故郷の人たちが信仰を持つには、ふさわしい時があります。

「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます」(使徒16:31)

→あなたの番です
 □家族や故郷の人に、福音を語ってみよう
 □主イエスも故郷の人に尊敬されなかった