マタイ14:22~36 しっかりしなさい

 弟子訓練とは、弟子との別れの日を想定して取り組むものです。

車の免許を取得して10年間、あなたが毎日運転してきたとします。「では、これから車の運転のトレーニングをします」と誰かが言ってきたらどうしますか。必要ないと断るでしょう。トレーニングは上手にできない人のためにあるのです。
信仰の訓練も同じです。失敗し、目覚め、主イエスに信頼して整えられていくのです。


1、始まったトレーニング

それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗り込ませて、自分より先に向こう岸へ行かせ、その間に群衆を帰してしまわれた。群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。しかし、舟は、陸からもう何キロメートルも離れていたが、風が向かい風なので、波に悩まされていた。(マタイ14:22~24)

 「すぐ」「強いて」「向こう岸へ行かせ」とあるように、主イエスは、とても不自然な形で十二弟子を舟に乗せました。「向かい風」「波に悩まされ」「夜中の3時ごろ」という事から、弟子たちは真夜中に漕ぎあぐねて苦労していることが分かります。深夜、ガリラヤ湖で向かい風に悩まされ、漕ぎ続けている状態こそ、信仰の訓練だったのです。

 「祈るために、ひとりで山に登られた」とあります。ちょうどその時刻に、主イエスは一人で祈っておられました。今日の箇所の並行箇所は、マルコ6章、ヨハネ6章ですが、どちらも主イエスが山に登られたと書いてありますが、祈っていたとは明確に書いていません。マタイの福音書は、弟子たちが苦労していた時に主イエスの祈りがあったと強調しています。訓練を受けて成長したなら、それは主イエスの祈りのおかげなのです。

 主イエスが私達のために祈って下さっている事は以下の聖句で分かります。
しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。」(ルカ22:32)
死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです。(ローマ8:34)

マタイ8章を見ると、十二弟子がガリラヤ湖で大嵐に遭遇し、主イエスが風や湖に命じただけで一瞬で静まったことが記録されています。弟子として成長するためには、その出来事を土台にして、信仰を積み上げれば良いのです。向かい風でも、あわてず、あきらめず、主イエスに信頼したら良かったのです。

今、あなたは、暗闇で先が見えず、向かい風で苦しんでいますか。それは、あなたの信仰を育てるためのトレーニングです。あなたが一番つらいとき、主イエスはあなたのために集中して祈り支えてくれています。主イエスの祈りがあなたの信仰を成長させてくれる原動力です。



2、水の上を歩くイエス

すると、夜中の三時ごろ、イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。弟子たちは、イエスが湖の上を歩いておられるのを見て、「あれは幽霊だ。」と言って、おびえてしまい、恐ろしさのあまり、叫び声を上げた。しかし、イエスはすぐに彼らに話しかけ、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われた。(マタイ14:25~27)

昼間、主イエスが水の上を歩いたら、群衆が大騒ぎになり、訓練はできません。主イエスは弟子たちだけに真の姿を示したかったのです。主イエスは、嵐を静めるだけでなく、水の上さえ自由に歩くことができる、まことの神なのです。詩篇68篇を見ても分かるように、まことの神はさかまく波を静める方なのです。

その夜は月明かりだったのでしょう、弟子たちは主イエスを幽霊だと勘違いして震え上がりました。主イエスは、舟から少し離れた場所から、「しっかりしなさい。わたしだ。恐れることはない。」と言われました。

「イエスは湖の上を歩いて、彼らのところに行かれた。」

神である主イエスは、あなたが向かい風で苦労している場所に来てくれる方です。まさかと思える方法で、水の上を歩いてでも来てくれます。主は生きておられます。



3、歩けた

すると、ペテロが答えて言った。「主よ。もし、あなたでしたら、私に、水の上を歩いてここまで来い、とお命じになってください。」イエスは「来なさい。」と言われた。そこで、ペテロは舟から出て、水の上を歩いてイエスのほうに行った。ところが、風を見て、こわくなり、沈みかけたので叫び出し、「主よ。助けてください。」と言った。そこで、イエスはすぐに手を伸ばして、彼をつかんで言われた。「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」そして、ふたりが舟に乗り移ると、風がやんだ。そこで、舟の中にいた者たちは、イエスを拝んで、「確かにあなたは神の子です。」と言った。彼らは湖を渡ってゲネサレの地に着いた。(マタイ14:28~34)

 向かい風がきつく漕いでも漕いでも前進できず何時間も苦労していました。あなたが十二弟子なら、主イエスに出会ったら何と言いますか。風を止めてくださいと言うでしょう。
ところが、ペテロは違いました。本来の目的など吹っ飛んでいます。こっちに来なさいと命じて下さい、そうすれば私も歩けます、と言い出したのです。

水の上を歩いたペテロの話は、マタイしか記録していません。マタイは、ペテロの行動を冷たく見ているのではありません。主イエスを信頼して水の上に歩き出したマタイの勇気を評価しているのです。主イエスを信頼すれば、水の上さえ歩けるとマタイは言いたいのです。あの時、ペテロと一緒に歩けばよかったと後悔しているのかもしれません。

 「信仰の薄い人だな。なぜ疑うのか。」この主イエスの言葉を良く味わうなら、疑わずに主イエスを信頼していれば、水の上も沈まずに歩けることが分かります。

 「あなたがたは、このように主イエス・キリストを受け入れたのですから、彼にあって歩みなさい。」(コロサイ2:6)

「水の上を歩いてイエスのほうに行った」

さあ、あなたが水の上を歩く番です。最初の一歩を踏み出しましょう。

→あなたの番です
 □苦しい訓練の時、主イエスの祈りが背後にある
 □主イエスだけを見ていれば、水の上を歩ける