「信頼はくもの糸」 ヨブ記8章

今日はヨブの三人の友人の二番目としてビルダデが登場します。ビルダデは、生徒を採点する教師のような人です。それも、思い込みが強く、先入観で生徒を判定する冷たい教師のような人物です。

 うちの息子が日本で小学校時代だったときのことです。担任の女教師が息子を水飲み場に連れて行き、説教しました。「あなたが、やったんでしょ」いたずらが発覚したのですが、先生は息子を犯人と決め付けました。息子は、怒って先生をにらんで、「やってません」と答えます。先生はあれこれと状況証拠を突きつけますが思い込みなので全部空回り。父親が牧師だと知っているので最後の手段に出ました。「神さまの前に、嘘はないのね。神さまに誓ってやってないと言えるの」さすがの息子もこの反則に強烈に反発をしました。「やっていません」
思い込みに基づく叱責は、実にまいります。やる気喪失です。僕らは、こうした言葉や態度にしばしば出会い、深く傷つきます。

 ビルダデは口をひらいてこう言いました。
「いつまであなたがたはこのようなことを語るのか。
あなたが口にすることばは激しい風のようだ。」(2節)
苦悩から搾り出したヨブのうめきを、まったく無意味な空言として切り捨てました。ゴーゴーと風はうるさく吹くが、何の実体もない。ヨブの言葉も空虚だと判定しました。冷たい男です。原則や一般論で押し通すタイプです。

8章全体でビルダデは、一から十までなってないとヨブを採点した。落第点ばかりだと評価した4つのポイントを見てみよう。
(1)育て方が悪いから子供達が罪を犯すのだ(4節)
(2)神に哀れみを求める点が不足(5~7節)
(3)ヨブの信仰自体が問題(13~14節)
(4)罪を犯しているので潔白からほど遠い(20~21節)

(1)死んだヨブの子供に罪があったと推測だけで言い切ったビルダデ。
「もし、あなたの子らが神に罪を犯し、
神が彼らを
そのそむきの罪の手中に送りこまれたのなら、」(4節)

(2)ヨブは命がけで神に哀れみを求めていたが、ビルダデから見ると祈りが不足となる。
「もし、あなたが、熱心に神に求め、
全能者にあわれみを請うなら、
もし、あなたが純粋で正しいなら、
まことに神は今すぐあなたのために起き上がり、
あなたの義の住まいを回復される。
あなたの始めは小さくても、
その終わりは、はなはだ大きくなる。」(5~7節)

(3)ヨブの信仰が枯れた水草のようだと評したが、苦難の中で「主は与え、主は取られる」と主を礼拝したヨブの信仰をビルダデは知らない。
「すべて神を忘れる者の道はこのようだ。
神を敬わない者の望みは消えうせる。
その確信は、くもの糸。
その信頼は、くもの巣だ。」(13~14節)

(4)ビルダデは先入観だけで、ヨブには罪があると言い切った。
「見よ。神は潔白な人を退けない。
悪を行う者の手を取らない。
ついには、神は笑いをあなたの口に満たし、
喜びの叫びをあなたの唇に満たす。」(20~21節)


 <聖書は「鏡」のようなもの>とよく言われます。聖書を読むと自分の姿が見えてくるものです。ビルダデをよく観察すると、そこに自分が映し出されていることが分かります。

人が弱っている時、人が苦しんでいるとき、あなたはその人の能力を採点して正論で人を鞭打つ人ですか。
<このテストは落第点じゃないか。予習・復習をすれば、良い点数が取れたのに。それをやらないからいけないんだ。今日からやりなさい。>
比較的能力のある人が陥りやすい弱さです。がんばれる人が、人を採点しがちです。冷静に状況を分析していると本人は思い込みますが、色眼鏡と先入観に引きずられ、自分中心に人を見ている場合が多い。採点する人自身の世間体や面子などが優先し判断を狂わせることが往々にしてあります。
 あなたは、一番身近な人とどう接していますか。子供に対して、夫や妻に対して、親戚や教会の仲間、職場の同僚などに、ビルダデのような心で接していませんか。

ビルダデの採点主義から離れる秘訣が、ピリピ2:3~4にあります。
「何事でも自己中心や虚栄からすることなく、へりくだって、互いに人を自分よりもすぐれた者だと思いなさい。自分のことだけでなく、他人のことも顧みなさい。」

ある牧師先生と二番目の娘さんとのやり取りを先日文書で読みました。娘さんは当時中学生でした。派手な服装にお化粧、荒れに荒れている時期でした。夜遅く帰ってくるようになったある日。
「君は中学生でしょう。私の家は牧師の家だよ。教会にあかしにならないじゃないか。男の子と付き合っているようだが、夜遅くなるのは許さない」とお説教しました。娘さんは反感を募らせ、嫌な顔つきをしました。それで、つい、娘の頬をたたいてしまいました。バシッ!暴力は絶対に振るわないと心に誓っていたのに。牧師家庭としての世間体を第一にしてしまった。「I don’t like you, Daddy」と叫んだ娘さんは部屋に入り、鍵をしめて泣き出しました。牧師先生の手にはひらの痛みと後悔だけが残りました。
長い年数が過ぎ娘さんは立派な信仰を持つ主婦になっていました。ある日、離婚問題で苦しむ主婦のため電話で泣きながら話を聞いていたそうです。
牧師先生は、荒れていた中学生だった子が、今では人を励ますために泣いていると、神に感謝をささげました。この機会に、娘の頬をたたいた過去をわびようと思ったのです。「反抗していると思って叩いてしまった。ごめんね」。頭を下げてあやまりました。すると、娘さんは、過去を思い出そうと遠くを見る目をした後に言いました。「私、物心ついてから、お父さんに叩かれたことなんて一度もないわ」。
その場を離れて自分のドアを閉めたのは、牧師先生のほうでした。忘れたと言ってくれた娘さんの愛に泣けて、泣けてしょうがありませんでした。神さまに感謝しているうちに、神さまが牧師先生の心に語りかけてくださったといいます。「わたしも、お前の罪は忘れたよ」。「東が西から遠く離れているように、私たちのそむきの罪を私たちから遠く離される。」(詩篇103:12)という聖書の言葉が心に迫ってきました。

一方的な思い込みを持つのはやめよう。冷たい正論だけを突きつけるのはやめよう。採点だけをする姿勢はやめよう。ああすれば良かったのにと、やり直せない過去について言ってみたって始まらない。今日からきちんとやれと言っても、もう必死にもがいている人の気力をそぐだけだ。

相手の話を、先入観なしにそのまま受け止めよう。血の通う、温かい言葉を伝えよう。そして祈ってあげよう。