贖う方 ヨブ記19章1~29節

 海外に生活する我々は日本の流行語に言葉に面食らいますが、「KY」という言葉を知っていますか。政治家までが使っていますよ。K(空気が)Y(読めない)という意味らしいです。「あいつはKYだからね」と使うようです。使い方が間違っていたらお許しを、私もKYの部類かもしれません。
 私たちの日常生活は困難が多いですね。空気を読めば、「もうだめだ」と結論付けたくなる状況ばかりです。あなたは現実だけに目を留めていませんか。神の真実に目を向けてください。あれもこれも頭の痛い問題ばかりですが、朝、一人で聖書を読むと、神の真実に目が行きます。

 ヨブは実に惨めな状況にいましたが、神の真実に突然のように気づいた人です。今日の箇所にはヨブ記の重要聖句が25節に登場します。
「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 ヨブは、神に責められたと感じていました。
「神が私の道をふさがれたので、
私は過ぎ行くことができない。
私の通り道にやみを置いておられる。」(8節)
 栄光も望みも神に奪われた(9~12節)とヨブは一人で思い込み、神の軍勢に攻め込まれていると感じていました。もちろんこれはヨブの主観的な判断です。

 ヨブは友人や家族からも見捨てられたと感じていました。
「私の親族は来なくなり、
私の親しいともは私を忘れた。」(14節)
「私が自分のしもべを呼んでも、
彼は返事もしない。」(16節)
「私の息は私の妻にきらわれる。」(17節)
「私の親しい仲間はみな、私を忌みきらい、
私の愛した人々も私にそむいた。」(21節)

 自分の置かれた空気をヨブが読むなら、出口なしです。でも、出口なしという空気を読まずに、前に進んだ人の姿は多くの人に勇気を与えます。

 小学校の先生が中学に進学した女の子を次のように励ましました。水泳が大好きでオリンピックに出たいと言ってたじゃないの、学校にプールがないくらいで夢を捨てちゃだめ。それに勇気を得て、水泳を続けた女子有名選手がいます。

 次に、自分の声が人と違うので恥ずかしいと思っていた少女がいました。親からもらった声を大事にして、むしろ鍛えなさいと励ましたのがお母さんでした。演劇部に入って前向きな人生を選んだこの女性は、後に有名な声優になりました。人とは違う変わった声こそがむしろチャームポイントになったのです。

 KYなんて打ち破って生きたこれらの人々は多くの人を力づけます。ヨブも、神に苦しめられたと思い込み、人には見捨てられ、出口なしの状況でしたが、前後脈絡関係なく、唐突に、魂を貫くような信仰告白を25節でしました。「私は知っている」という言葉に注目しましょう、ヨブの強い確信がにじみ出ています。

「私は知っている。
私を贖う方は生きておられ、
後の日に、ちりの上に立たれることを。」(25節)

 「贖う」という言葉の意味を考えましょう。経済的に困窮し先祖代々の土地をやむなく売り払った時、落ちぶれて奴隷になってしまった時、身内の者が高価な代価を払って買い戻すことを普通「贖い」といいます。
 聖書では「贖い」を広義に使用しています。「敵」(ヨブ6:23)、「労役」(出エジプト6:6)、「苦しみ」(詩篇25:22)、「いのち」の危険(詩篇103:4)、「しいたげ」(詩篇119:134)、「罪」(イザヤ6:9)などからの救いのときに、「贖い」を使います。

 父なる神を贖い主と呼ぶ箇所は聖書に多いのですが、主イエスが生まれる前にヨブは救い主を信仰の目で見て、贖うお方であると言い切っています。イザヤ53章を除くと、こんなに鮮やかに救い主の姿を予告した箇所は旧約聖書にはないと私は思います。

 贖う方がちりの上に立つ、とヨブは言っています。ちりとは何でしょう。ヨブが今座っている場所こそが、ちりです。ヨブにとって「ちり」は、悲しみと絶望と惨めさと死を象徴するものでした。1日に10人の子供と全財産を失った悲しみから、ちりを頭からまき、ちりの上で悲しんだのです。ヨブが慕う贖い主も、ちりの上に立つというのです。イエス・キリストは、ユダヤ人指導者に誤解され、ねたまれ、弟子に裏切られ、死の苦しみを通った方でした。まさに、ちりの上に立つ救い主です。

 神を信じ仰ぐ行為は、合理的でも論理的でもないと見える時があります。まわりの状況からいうと、とんでもなく飛躍しているとみられます。でも、神というお方が本当に生きておられるなら、それは無茶でも、無謀でもないのです。一番安全で確かな生き方なのです。「私を贖う方は生きておられ」とありますね。
 現実だけに振り回されず、神の真実に立って進みましょう。私たちをあらゆる困難から救い出してくださる方がおられるのです。そのお方が生きているのです。勇気を出して進みましょう。