仕える者 マルコ9:30~37

 家族が久しぶりに全員集まり、伝統的な料理のターキーやパンプキンパイを食べる。感謝祭は日本のお正月とよく似ていますね。
 サンクスギビングで一番楽しいのはお母さんに違いない。家族のみんなが喜ぶ顔を予想して買い物をし、料理を作り、家を片付ける。そうです。仕える人には喜びが伴うのです。今日は、仕える喜びと受け入れる喜びについて話しましょう。

1、仕える喜び

 ピリポ・カイザリヤでの信仰告白後、主イエスは弟子たちとの時間を最優先させました。十字架にかかるまでわずかの時間しか残されていない。群集を教えたり病人をいやしたりという今までの活動パターンを止め、弟子たちに集中するようになりました。十字架の死、復活、昇天、というプロセスを経て、主イエスは地上を去ることになりますが、主イエスの関心はその後の弟子たちにあったのです。

 弟子達はヘルモン山を降りながらガリラヤ湖付近に戻りましたが、誰が偉いかという話題でかなり白熱していたようです。現代に置き換えて話すとおもしろいですね。
イエスさまが大統領となれば、俺は特別補佐官だとヨハネが言えば、それなら俺は国務長官とヤコブが言い、ペテロは国防長官だと言う。それを聞いた9人の弟子が異議を唱え、最初に俺がペテロを主イエスに紹介したとアンデレが主張。純粋さなら俺が一番とトマスが言う。こんなたぐいの話だったと思います。男という動物は、子供の頃も大人になってもやることは同じです。どっちが強いか、どっちが偉いかです。

 イエスを代表する人物として弟子たちが今後活躍することになるので、仕える姿勢が肝要だとして主イエスは弟子たちを教え諭しました。

 「だれでも人の先に立ちたいと思うなら、みなのしんがりとなり、
  みなに仕える者となりなさい。」(マルコ9:35)

 仕えるということは、自分以外の人の笑顔を楽しみにする行為です。

 あなたが今週、仕えようと思う対象は誰でしょう。家族ですか。職場の仲間ですか。お客様ですか。仕える行為を自発的に選ぶ人は幸せになります。


 
2、受け入れる喜び

 主イエスは次に、受け入れるということを教えられました。受け入れるという行為は仕える事と同質の心構えです。

 「だれでも、このような幼子たちのひとりを、
 わたしの名のゆえに受け入れるならば、わたしを受け入れるのです。
 また、だれでも、わたしを受け入れるならば、
 わたしを受け入れるのではなく、
 わたしを遣わされた方を受け入れるのです。」(マルコ9:37)

 幼子とは何でしょう。弱い者、価値のない者のことです。大人の数に入らない標準以下の者です。

 ダウンタウンのある韓国教会で「さあ、今日はホームレスの人を3人ハッグしてキリストの愛を伝えましょう」という課題が牧師から出たそうです。実際に町に出てそれを実行したという人の話を聞きました。最初は戸惑いましたが、笑顔で戻ってきたといいます。

 受け入れるというのは、自分の安全地帯を出ることです。そこに冒険があり、成長があります。家に迎え入れて泊めてあげることも受け入れる事の一つです。誰かの話をゆっくり聞くのもそうです。

 あなたにとって、受け入れるべき人とは誰でしょう。

 主イエスは、道徳を教えているのではありません。少々謙遜そうな人になりなさいというのではありません。主イエスがしてくれた事に気づき、主イエスに感謝し、主イエスのように生きるヒントを与えているのです。

 主イエスは、あなたに仕えるために来られたのです。神である方が、私たちの罪を洗い落とすために、膝をかがめ、足を洗った行為が十字架です。
 主イエスは、他人に嫌われたあなたを受け入れ、いわば身元引受人となってくださいました。主イエスは私たちを喜び、受け入れ、<この人は、私の愛する子だ、私の子だ、私が推薦する人だ>と言ってはばからないのです。

 弟子たちはすぐには主イエスのような謙遜な人になれませんでした。弟子の一人、ペテロはその晩年に次のような言葉を残しました。様々な失敗を重ねた後、聖霊により内側が帰られた印とみることができます。

 「あなたがたは、その割り当てられている人たちを支配するのではなく、むしろ群れの模範となりなさい。」(第1ペテロ5:2)
 「同じように、若い人たちよ。長老たちに従いなさい。みな互いに謙遜を身に着けなさい。神は高ぶる者に敵対し、へりくだる者に恵みを与えられるからです。ですから、あなたがたは、神の力強い御手の下にへりくだりなさい。神が、ちょうど良い時に、あなたがたを高くしてくださるためです。」(第1ペテロ5:5~6)

 さあ、あなたの番です。身近な人に仕え、自分の場所を出て誰かを受け入れましょう。