第2コリント11:16~33 心配と苦しみ

1、異なる福音

 あなたが真面目な人かどうか、ちょっとテストをしてみましょう。
1)深夜、交差点にあなたが立っています。どこにも自動車がいません。歩行者用の信号が赤ですが、渡りますか、待っていますか。
 2)お店でおつりをもらいましたが、10ドルよけいでした。返しますか、主の恵みと勝手に納得して、もらいますか。
 3)車の運転席から、ガムやタバコを捨てる人を見たら怒りますか。
 信号を待ち、おつりを返し、怒るなら、あなたは正真正銘の真面目な人です。

 クリスチャンが真面目になりすぎるとやっかいな問題が生まれます。それは、律法主義です。一方的な恵みで救われたことを忘れ、真面目でいることが救いの土台であり、真面目に行動することがクリスチャンの目標だと思い違いをする人がいます。

 パウロは、コリント教会に混乱を招いた人々を、「にせ使徒」(13節)と呼んで糾弾し、にせ使徒が、「異なる福音」(4節)を持ち込んだと指摘しました。

 「こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。」(13節)

 「というわけは、ある人が来て、私たちの宣べ伝えなかった別のイエスを宣べ伝えたり、あるいはあなたがたが、前に受けたことのない異なった霊を受けたり、受け入れたことのない異なった福音を受けたりするときも、あなたがたはみごとにこらえているからです。」(4節)

 異なる福音とは、律法主義です。主イエスを信じるだけでは不十分で、ユダヤ人のように行動することが必要だと主張しました。ガラテヤの教会でも同種の問題が起き、パウロは以下のように救いの本質を説明しました。

 「しかし、人は律法の行ないによっては義と認められず、ただキリスト・イエスを信じる信仰によって義と認められる、ということを知ったからこそ、私たちもキリスト・イエスを信じたのです。これは、律法の行ないによってではなく、キリストを信じる信仰によって義と認められるためです。なぜなら、律法の行ないによって義と認められる者は、ひとりもいないからです。」(ガラテヤ2:16)

 人間は、自分の行いや真面目さが救いにつながると考えやすいものです。ですからパウロは、救いの本質が恵みであると語り、人間の力や熱心、真面目さを誇ってはならないと語りました。

 「あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行いによるのではありません。だれも誇ることのないためです。」(エペソ2:8~9)

 真面目なクリスチャンは、自分の思考パターンに気をつけてください。自分の良い行いを誇らないようにしましょう。自分だけがクリスチャンのエリートだと錯覚して、他人をさばくことのないようにしましょう。



2、差し出した愛

 人が何かを誇るときは、自分の業績や能力を誇るものです。ですからパウロは、自分が教会を多数開拓し育てたことを誇ることができたはずです。病人をいやした事や、学歴が高く聖書の知識に精通していること、復活された主イエスにダマスコで会った事などを話せば、にせ使徒との差別化ができます。けれども、パウロはそうしませんでした。その代わり、主イエスのために苦しんだ事だけを語りました。

 「ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(第2コリント11:24~27)

 三十九のむちを受けたことが5度あるとパウロは述べました。申命記25:3によると、ユダヤでのむち打ち刑は40回が上限とされていました、つまり、これ以上の刑は死刑しかない重い刑であることが分かります。
 ユダヤ人以外から受けたむち打ちが3度と書いてあります。これは異邦人によるむち打ち刑を指します。使徒16:33で、ピリピでパウロがむち打たれた後に、傷を洗ってもらったことが書いてあることから、ローマ兵によるむち打ち刑がどんなに過酷な処罰か分かります。
 石で打たれたと書いてありますが、これは死刑なので、生き延びたこと自体が例外的出来事でした。

 パウロがむち打たれていた時、何を考えていたでしょう。主イエスが十字架で苦しまれたことを思い起こしていたのではと思います。

 最後にパウロは、あちこちの教会のクリスチャンに対する心配で押しつぶされそうになったとも書いています。(28~29節)苦しみ以外に誇れるものは、自分が弱いことしかないと語ります。
 「もしどうしても誇る必要があるなら、私は自分の弱さを誇ります。」(30節)


 パウロは、11章前半で、コリント教会の人々のことが心配だと書き、後半では、主イエスのために苦しんだことを書きました。
 誰かのことが心配になる。誰かのために苦しみを担う。それを一言で言い表すなら、愛です。パウロが、コリントの教会と、主イエスに差し出したものは、愛だったのです。


 あなたも、主イエスのために、迫害されたり、ばかにされたりしたなら、あなたは主イエスを愛しているとあかししているのです。今週、主イエスのために苦しみを背負ったなら、しっかりとそれを背負いましょう。

 身近な人のことで、心を痛めたり、苦しんだりしていますか。難しい10代の子供に振り回されていますか。それは、あなたが、その人を愛しているという証拠です。愛しているなら、苦しみを共に担いましょう。

 主イエスは、十字架であなたのために苦しみを背負ってくれたのですから。


 あなたの番です→
 □良い行いを誇らない
 □苦しみの中で主イエスの十字架を思う
 □愛しているなら、苦しみも心配も背負って歩こう