第2コリント10:1~18 「強さ」とは

 パウロは、コリント教会の一部の人から批判を受けていましたが、10章からその問題を本格的に取り扱います。
 
 あなたは批判する人ですか。批判を受ける立場ですか。

 今日は、批判に関する問題を取り上げながら、本当の強さとは何かを考えてみたいと思います。


1、的外れな批判を受けたパウロ

 パウロは、コリント教会の開拓伝道者であり、初代牧師でした。コリント教会を離れて数年たった今、教会の一部の人、おそらく外部から入り込んで来た人々によってパウロは鋭く批判されていました。

1)信仰的でない
 パウロを批判する人々は、パウロが「肉に従って歩んでいる」(2節)と非難しました。パウロが神を忘れ、自分の力だけで仕事をしていると指摘したのです。これは、一方的な思い込みです。パウロをねたむ心が背景にあったのでしょう。
 パウロは、「私たちは肉にあって歩んではいても、肉に従って戦ってはいません。」(3節)と切り返しました。パウロは、神に由来する力を体験していました。(4節)

2)弱々しい
 「彼らは言います。『パウロの手紙は重みがあって力強いが、実際に会ったばあいの彼は弱々しく、その話しぶりは、なっていない。』」(10節)
 パウロが謙虚に話したり聞いたりした姿勢を、弱腰だと非難しました。使徒26章によればパウロはアグリッパ王の心を揺るがす説教をし、使徒22章によれば暴徒たちの前で救いのあかしを堂々としたので、むしろパウロは雄弁であることが分かります。
 パウロは、「そういう人はよく承知しておきなさい。離れているときに書く手紙のことばがそうなら、いっしょにいるときの行動もそのとおりです。」(11節)と答えました。

 リーダーとは、批判という海を泳ぎ続ける人のことです。

 私は、高校時代は運動部のキャプテン、大学時代は聖書研究会のリーダー、そして、長い年月牧師をしましたが、リーダーであることは批判の中に生きることだと認識しています。
 あなたも、会社で長く働けばリーダーになります。「長」の付く役職になります。家庭でも、結婚して子供が与えられれば、父であり母であり、家庭のリーダーになります。教会でも様々な奉仕の中でリーダーになります。男はつらいよ、ではありませんが、リーダーという立場はつらいのです。

 批判にさらされるリーダーであることを止めなかった人。それが、パウロです。それが、本当の強さです。



2、問題のある批判者

 非難している人自身に問題があるとパウロは指摘します。

1)高ぶり

 小林一茶は、「他の富めるをうらやまず、身の貧しきを嘆かず、ただ慎むは貪欲、恐るべきはおごり」、と言いました。
パウロは、批判者の心に高ぶりがあると見破りました。

「私たちは、さまざまの思弁と、神の知識に逆らって立つあらゆる高ぶりを打ち砕き、すべてのはかりごとをとりこにしてキリストに服従させ、」(5節)

 非難という行為は、高ぶりから出て来る場合が多いものです。自分を良く見せたい、自分がリーダーになりたい、尊敬されたい、という願いが私たち自身を高慢にします。神を敬う心を忘れ、自分の弱さから目をそらしています。

 「また、あなたがたの従順が完全になるとき、あらゆる不従順を罰する用意ができているのです。」(6節)
 本当の強さを持つ人は謙虚です。主イエスに従順な心は、自分の限度や割り当てを自覚できます。
 「私たちは、限度を越えて誇りはしません。私たちがあなたがたのところまで行くのも、神が私たちに量って割り当ててくださった限度内で行くのです。」(13節)

2)間違った優越感

 批判者は、間違ったエリート意識を持ちます。自分たちだけがキリストに属していると勘違いしていました。

 それで、パウロは、こう諭します。「あなたがたは、うわべのことだけを見ています。もし自分はキリストに属する者だと確信している人がいるなら、その人は、自分がキリストに属しているように、私たちもまたキリストに属しているということを、もう一度、自分でよく考えなさい。」(7節)

 本当にキリストに属している人は、キリストに属している他のクリスチャンを見抜けるはずです。それが見抜けないのは、批判者がキリストに属していないという証拠になります。


3)自己推薦している(12節)

 「私たちは、自己推薦をしているような人たちの中のだれかと自分を同列に置いたり、比較したりしようなどとは思いません。しかし、彼らが自分たちの間で自分を量ったり、比較したりしているのは、知恵のないことなのです。」(12節)

 コリント教会に紛れ込んだ、<にせ使徒>、あるいは、<にせ教師>は、パウロの悪口を言い、コリントの教会の一部の人々は完全に巻き込まれてしまいました。
 こういう種類の人を、私は「教会無宿ならず者」と呼びます。信仰年数が長い人が、どこかの教会に流れ着きます。神学校で聴講した経験があったり、教会役員経験者、学識者、社会的地位の高い人の場合もありますが、こうした人が、家庭集会などで周囲の人の不満を上手に聞き出し、牧師批判を始めます。教会が分裂状態になり、牧師が辞任せざるを得ない状態になります。私は、こうした例をあちこちで見聞きしてきました。
 あなたを含めて、すべてのクリスチャンはそういう人になる危険があります。霊的傲慢ほど恐ろしいものないのです。

 パウロはこう言いました。「誇る者は、主にあって誇りなさい。」(17節)
 「主に推薦される人こそ、受け入れられる人です。」(18節)




3、私はどうだろう


 あなたは、批判者ですか。あなたは、批判される人ですか。

 批判的態度だけで一生を終わらせると、「いじわるばあさん」、あるいは、「頑固じじい」になります。神を知り、信仰の成長を遂げた人は、「励ましじいさん」と「感謝ばあさん」になれます。


 良いものを生み出すために、正当で客観的な評価は必要です。問題は、独断的で悪意ある心や否定的な感情に支配された人の批判です。

 誰かを非難したいという衝動にかられたなら、神の前で静かに祈ってみましょう。平安があなたを覆うなら、適切な言葉を選んで、本人に直接話して下さい。平安がないなら、止めましょう。
 批判の言葉でなく、具体的で、積極的な提案をしましょう。さらに、私に協力させてくださいと一歩前に出ましょう。

 第二次世界大戦中のイギリスの首相チャーチルはこう言いました。「築き上げることは、多年の長く骨の折れる仕事である。破壊することは、たった一日の思慮なき行為で足る。」

 今日の一番大事な言葉はこれです。

 「あなたがたを倒すためにではなく、立てるために主が私たちに授けられた権威については、たとい私が多少誇りすぎることがあっても、恥とはならないでしょう。」(8節)

 「立てるために主が私たちに授けられた権威」私たちは、評論家になるために生まれたのではありません。文句を言うだけの人、悪意ある批判をする人、自分以外を否定する人、否定的な言葉で他者を叩き潰す人になるために神に造られたのではありません。私たちはみな、誰かを立てあげるために生まれてきたのです。

 私の知り合いのイラストレーターは、アメリカの会社に中途採用され、絵がうまいので先輩にねたまれました。先輩は部下を使い嫌がらせをさせ、「I don’t like you」と職場で言わせました。クリスチャンの彼は、「I like you」と返事しました。再び「I don’t like you」
と言われても、「I like you」といい続け、結局喧嘩にも、混乱にもなりませんでした。


 何かを作り上げたいという目的を持ったリーダー達は、困難を乗り越え、問題的を改善し、調和を作り、最終目的に邁進する人です。目的達成のためなら、泥をかぶること、叩かれること、傷を負うこと、批判されること、遠回りの道も厭いません。

 あなたは、どちらですか。壊し屋ですか。建築家ですか。家庭や教会、会社や地域で、どちらの立場にいますか。無責任な批判者で一生を終えますか。勝利を信じて汗を流し手を取り合って進む主イエスの弟子になりませんか。

 主イエスは、公生涯のほとんどを律法学者からの批判を浴びて歩まれました。けれども、主イエスは、批判ばかりする私たちの罪を赦し、ネガティブな私たちを積極的に励ます十字架の道を選ばれました。主イエスこそ、真の建築家です。

 「十字架は重いが、ふしぎなことに、
 おまえがそれを担うやいなや、それがおまえを担ってくれる。
 初めは闇夜だが、行く手は真昼の明るさ。
 この道を進むものは「勇者」と呼ばれる。」
      ―ヒルティ「眠られぬ夜のために」3月13日―


 あなたの番です→
 □批判的になりやすい自分の動機を見つめよう。
 □建て上げる人になろう。提案者になろう。サポーターになろう。
 □主イエスに習い、批判につぶされない、強さを持つリーダーになろう