第2コリント12:1~21 弱さを誇る

 履歴書に自分の欠点や弱さを書く人がいるでしょうか。たとえば、国際線の飛行機に乗り遅れたことが2回、なくした携帯電話は5個、失恋が3回。
 パウロは、あえて弱さを明らかにしました。それは、なぜでしょう。
 
1、頂上の経験  <第三の天に引き上げられる>

 自分の強さを語る。それが、自分の立場を守る普通の方法です。

 「私はキリストにあるひとりの人を知っています。この人は十四年前に――肉体のままであったか、私は知りません。肉体を離れてであったか、それも知りません。神はご存じです。――第三の天にまで引き上げられました。」(2節)

 14年前とあるので、この経験はダマスコにおけるパウロの回心の出来事ではありません。1節では「主のまぼろしと啓示」とあるので、主に主導権があったと理解できます。「引き上げられました」との表現からも、神によってもたらされた特別な経験だと分かります。
 「第三の天」は、4節で「パラダイス」と置き換えられています。パダダイスは、新約聖書で3回だけ登場する言葉で、主イエスが十字架上で悔い改めた強盗に「あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(23:43)と言われたことから、主イエスを信じた者が死後にいく場所、主イエスがおられる場所だと分かります。黙示録によると「いのちの木の実」(黙示録2:7)のある場所がパラダイスだと言われていますが、それは天国と良く似ています。(黙示録22:2)

 「パラダイスに引き上げられて、人間には語ることを許されていない、口に出すことのできないことばを聞いたことを知っています。」(4節)

 これは、エベレストの頂上に立つような霊的な経験です。これ以上高い山はない、クリスチャンとしてこれ以上素晴らしい体験はない一生に一度の歓喜の時となりました。

 あなたも、このような頂上の経験がありますか。

 信仰的に最も恵まれた経験。奇跡を体験した。祈りの中で主がすぐそばにおられるような時を過ごした。神の言葉を耳で聞いた。
 そうした霊的な経験以外でも、頂上の経験に似たものはあります。あなたの優れた能力。財産や家柄という誇り。身体的美しさ。賞賛を受けた業績。

 これらの頂上の経験は、危険要素をはらんでいます。自分を大きくみせようとする傲慢さが忍び込んできます。周囲の人を見下したり、裁いたりしやすくなります。



2、谷底の経験  <肉体のとげ>

 パウロは、次に、自分の弱さを語り始めました。

 「また、その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないようにと、肉体に一つのとげを与えられました。それは私が高ぶることのないように、私を打つための、サタンの使いです。このことについては、これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました。」(7~8節)

 「肉体のとげ」ということは、実際の痛みがありことを意味します。「私を打つ」という表現から、その痛みが激しいものであると分かります。神からの愛の警告とは言わず、「サタンの使い」という言葉を選んだところから、情け容赦のない痛みだと想像できます。命を投げ出すように必死に何度も祈ったけれども聞かれなかったという事を、「三度も主に願いました」という言葉で表現しました。これほど真剣に純粋に祈ったことがなかったのに、かなえられなかったのです。

 パウロの肉体のとげは、何だったのでしょう。パウロは詳細に書きません。目の病気、むち打ちによる後遺症、ひどい持病、てんかんなどの可能性が聖書学者により指摘されていますが、とにかく、パウロは具体的に書きたくなった事なのです。肉体のとげとは、言いたくない事なのです。

 第三の天に引き上げられたのが山頂の経験と言えるなら、これは、谷底の経験です。
 祈ってもかなえられない、無力さ。サタンの使いに苦しめられるという霊的暗黒。何度も襲ってくる痛みの中での、みじめさや孤独。パラダイスの経験は一度きりでしたが、肉体のとげは頻繁に襲ってくる現在形の痛みであり、いつ終わるともしれない不安を伴いました。

 あなたの弱さは何ですか。とげは何ですか。谷底の経験は何ですか。

 失恋の痛手。最愛の人を失った悲しみ。他人には当たり前のことが自分にはできない辛さ。生まれた家や家族の恥や痛み。自分が抱える肉体的なハンディー。

 みじめさ。疑い。痛み。孤独。無力。私たちは、みな、この種の弱さを抱えています。



3、頂上と谷底がつながる時

 普通の人なら、頂上の経験はフォトフレームに入れて飾ります。パウロも、それだけ離せば、にぜ使徒たちを蹴散らすことができたのです。
 肉体のとげという悩みは心の引き出しの一番奥に放り込み、誰にも見せないものです。パウロはそうしませんでした。

 「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである。』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

 パウロは、肉体のとげについて主に除去を願い出ました。その祈りの期間が、数ヶ月か、数年かは分かりません。でも、主イエスの言葉が、心に届いたとき、はじめて、頂上と谷底がつながったのです。

 第三の天の経験で高ぶることがないように、痛みはどうしても必要なものだったのです。

 「その啓示があまりにもすばらしいからです。そのために私は、高ぶることのないよに」(7節)

 肉体のとげや弱さというのは、欠けたり不足した状態ではないとパウロは悟りました。「わたしの恵みは、あなたに十分である」とあるように、痛みと恥と無力感の中に、主イエスの恵みが不足することなく十分に注がれていたのです。主イエスの愛は、弱さの中にあふれるほど注がれているのです。主イエスの力は、私の弱さの中にこそ現れるのです。それも、完全に。弱さこそ、主イエスを身近に感じられる入り口です。

 伝道者の正木茂先生は、その著書に何度も内山さんという方の話を書いておられます。内山さんは九州の大学病院に入院されていた方で、とても難しい病気になられました。当事は治療法がなく、薬の入った風呂に全身を浸しておく以外生きていくすべがないという状態でした。
 主イエスを信じていた内山さんは、薬の液が滴る手で手紙を書き、主イエスを伝え、困難の中にいる人を励ましました。亡くなる前の最後の言葉は、「神は愛だ。それは本当だ。かみの恵みは私に足れりだ」と言われて天に召されたそうです。

 「ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです。」(10節)

 弱さが、神への信頼を強めてくれます。
 弱さが、愛の人を作ります。
 弱さが、傲慢にならないための防波堤になります。
 弱さが、主イエスが身近におられると教えてくれます。
 弱さが、主イエスの力の注ぎ口です。
 弱さは、宝です。

 「ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。」(9節)

  あなたの番です→
   □あなたの「第三の天」の経験は何ですか
   □あなたの弱さ、「肉体のとげ」は何ですか
   □今週、あなたの弱さを生かして、主の栄光を現しましょう