マルコ14:1~9 主イエスのために

ヨハネの福音書12:3によると、ナルドの香油を注いだ女性はベタニヤのマリヤであることが分かります。けれども、マタイもマルコもあえて名前を書き入れませんでした。
それは、女性の行為に焦点を当てたいからだ、と私は理解しています。

1、むだ

 「何のために、香油をこんなにむだにしたのか。」(4節)

 私の知り合い夫婦は、新婚旅行の費用を海外宣教のために全部ささげて旅行には行きませんでした。若い二人は献金できたことを喜び、他人は「もったいない」と言うことでしょう。

 さて、ナルドの香油は、ヒマラヤ原産の植物の根から作られ、インド経由で輸入される貴重品でした。当事のユダヤでは、もてなしのためにお客様の頭に一、二滴の香油をかけるという習慣があったようで、旅の疲れを癒す良い香りだったといいます。

 弟子たちは憤然としていました。もったいない、と思ったからです。女性が一度に注いだ香油は300デナリの価値があり、男性の年間所得とほぼ同じ額になります。無駄だ、と言いたい気持ちは分かりますが、香油はその女性の持ち物です。とやかく言われる筋合はありません。

 私は「むだ」いう言葉に心を刺されました。私もそんな陰口を言われてみたい。なぜ主イエスのために、そんな無駄なことをするのか、と。

 主イエスのためのむだ、とは、あなたにとって何ですか。


2、主イエスのため

 ある時私は、既婚の男性と話していました。妻が喜ぶ事が何か、私は日常的に考え、捜すようにしていると話したのです。彼は、全身が「愕然」という文字になって固まっていました。妻が喜ぶことを捜す、そんなことは考えたことがないという顔でした。偉そうなことを言っていますが、私も、妻の喜びを捜すという発想は最近身に付けたものです。

 「そのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために、りっぱなことをしてくれたのです。」(6節)

 この女性は、なぜこんなにも思い切った事ができたのでしょう。死んでしまった肉親のラザロの命を返してくれたことへの感謝もあったでしょう。主イエスにすべてを受け入れてもらえた喜び理由かもしれません。主イエスの言葉を誰よりも聞き取った女性でしたから、主イエスの心を理解できたのかもしれません。いずれにせよ、この女性の自発的行為はキラリと輝いています。

 私はマルコの福音書を読み直しました。十二弟子が主イエスのために自発的にした愛の行為はひとつもありませんでした。弟子たちは、主イエスに助けてもらってばかりの幼子のようで、自分たちから主イエスのために何かをしたという記録は、一つもないのです。ひとつもです。

 この女性だけです。主イエスのために、何かをしたいと自発的に考え、実行したのは。主イエスは、女性の行為が「わたしのため」であると、はっきり分かって下さいました。
 
 あなたは、主イエスの喜ばれる事は何かと、考えたことがありますか。それを、実行したことがありますか。


3、自分にできること

 「この女は、自分にできることをしたのです。埋葬の用意にと、わたしのからだに、前もって油を塗ってくれたのです。」(8節)

 マタイ26:1によると「二日たつと過越の祭りになります。人の子は十字架につけられるために引き渡されます。」と主イエスは弟子たちに語られました。この女性もその場にいて聞いていたのかもしれません。

 女性は、自分の持ち物を見渡したのでしょう。自分の能力や権限の範囲で実行できることは何かと考えたのでしょう。今のタイミングでできることは何かを思いめぐらしたはずです。
 まもなく主イエスは死なれる。十字架刑ならば香油をぬって埋葬することは許されないだろう。今、私にできることは、手持ちのナルドの香油を注いで、埋葬の用意をして差し上げることだと考え至ったのです。

 「まことに、あなたがたに告げます。世界中のどこででも、福音が宣べ伝えられる所なら、この人のした事も語られて、この人の記念となるでしょう。」(マルコ14:9)

 主イエスは、女性の行為は福音と共に伝えられるべき事柄だと、異例の形で女性を高く評価されました。


 ナルドの香油を注いだ行為は、ひとことで言えば愛です。
 主イエスに対する自発的な愛です。

 むだをむだと思わないようになるのが愛です。
 自分のことでなく、主イエスの喜ばれることを捜すのが愛です。
 先延ばしせず、今自分にできる事を、今することが愛です。

 あなたの「ナルドの香油」とは何でしょう。


あなたの番です。
 □主イエスのために、大胆に、むだなことをしましょう。
 □主イエスの喜ばれることを捜して、自分から実行しましょう。
 □今この時の私にできることは何か、熟慮し、勇気をもって行いましょう。