マルコ14:10~25 裏切る者

あなたは裏切られたことがありますか。
 あなた自身が、誰かを裏切ったことがありますか。
  今日は、重いテーマ、裏切りについて考えてみましょう。

1、ユダの裏切り

 ところで、イスカリオテ・ユダは、十二弟子のひとりであるが、イエスを売ろうとして祭司長たちのところへ出向いて行った。(マルコ14:10)  

 十二弟子の一人、ユダは、祭司長のところに出向き、銀30枚と引き換えに主イエスを売り渡すことに心を決めました。悲しいことに、この金額はデナリに換算すると120デンリとなり、ナルドの香油の半分以下の価値しかありません。
 ユダの念頭にあるのは何らかの感傷ではなく、主イエスが確実にそこいいるはずの場所を祭司長たちに伝えることだけでした。

 12~16節には、過ぎ越しの食事場所がどのように手配されたかが記されています。これは、祭司長たちにも、ユダにも、食事場所を知らせないための方策だったのでしょう。

 そして、みなが席に着いて、食事をしているとき、イエスは言われた。「まことに、あなたがたに告げます。あなたがたのうちのひとりで、わたしといっしょに食事をしている者が、わたしを裏切ります。」(18節)

 食事の席で主イエスは、十二弟子の誰かがご自分を裏切るとはっきり言われました。弟子たちは悲しくなって、「まさか私ではないでしょう。」とかわるがわるイエスに言いだした。(19節)このようなふがいない弟子の姿が記録されたのは、意味があります。ユダと他の弟子たちは、それほど違いがない。聖書を読んでいる私たちとユダとの距離はそれほど離れていない、ということを私たちに警告しているのでしょう。

 ジョージア州シャーウッドバプティスト教会が作成した劇場公開映画「Courageous」はとても良い映画です。そのワンシーンに、メキシコ系のクリスチャン男性が信仰の葛藤で悩むシーンがあります。工場のマネージャーに登用したいが、虚偽の報告をするようにと会社から迫られ、クリスチャンとして嘘は言えないが断れば職を失うという危機に立たされます。
 私たちも、ユダになる可能性を持っています。

 あなたは、死ぬまで、主イエスについて行きますか。どんなことがあっても主イエスを裏切りませんか。


2、裏切る者の心

 イエスは言われた。「この十二人の中のひとりで、わたしといっしょに、同じ鉢にパンを浸している者です。確かに、人の子は、自分について書いてあるとおりに、去って行きます。しかし、人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(20~21節)

 おそらく、これは、主イエスが語られた言葉で最も厳しい言葉でしょう。なぜ、主イエスはこう言われたのでしょうか。

 その理由を考える上で裏切りについての考察が役立つかもしれません。

 今まで大好きだった、最も尊敬していた、けれども、何かが原因して手のひらを返す決意をする時があります。深い失望や誤解がきっかけになるかもしれません。相手に対する強烈で否定的感情が沸き起こると、過去の良い関係を捨てても裏切ることができます。
 また、自分にとって大きな利益が得られる時にも人は裏切ります。利益とは、自分が望むものを得るため、そして、自分の命を危険から救うことです。

 裏切る人の特徴は、自分の裏切り行為が正当でしかも必然性があったと自分に言い聞かせることです。なぜなら、裏切りほど社会的な批判を受ける行為は他にないからです。正しいのは私のほうだと正当性を主張し、相手が悪いのだと責任転嫁をせずには人は生きていけないのです。

 夫の携帯電話を見て不倫に気づいた妻が、逆に夫に責められることがあります。「恥ずかしいと思わないのか。こそこそ携帯を調べるなんて。それが、夫婦の絆を壊す原因だ。全部はお前のせいだ。離婚だ。それがお前の報いだ。」自己正当化と責任転嫁は、このようにして行われます。あなたは、自分の中に同じメカニズムにあることに気づきますか。

 太宰治の短編小説『駆け込み訴え』は、ユダをテーマにしたもので、裏切る人の心がみごとに描かれています。見事と言ったのは、裏切る人間が、正当性をどう説明するか、責任転嫁をどのようにするかを、見事に描ききったという意味です。小説では、ユダが主イエスを逆恨みし、反感を持ち、失望し、誰よりも主を愛していると自分に言い聞かせますが、太宰の筆は執拗で、行き場を失った人間の悲哀と滑稽さが語られています。

 実際のところ、2000年前のユダの心は誰も分かりません。ヨハネ12:6によると、ユダは弟子たちの会計係りで、その金をごまかしてきたことが分かります。自分の罪を悔い改める勇気がなく、銀30枚を得ることで金銭問題を帳消しにし、同時に、主イエスを死に追いやればユダの罪意識も解消できると短絡的に考えたのかもしれません。裏切りの論理は、いつでも自己中心で愚かな論理に過ぎません。

  「人の子を裏切るような人間はのろわれます。そういう人は生まれなかったほうがよかったのです。」(21節)

 この言葉で、一つだけ分かることがあります。主イエスが、ユダに対して心底怒っておられたということです。本気でユダにアプローチしておられます。
 正当化と責任転嫁という鋼鉄の鎧で全身を覆ったユダの心に届くためには、特に鋭い言葉が必要だったのでしょう。目を覚ませ。呪われるような人間になるな。生まれなかったほうがよかった、という人間になるな。あなたは、そんな人間じゃない。それが主イエスの真意だったと私は理解しています。

 あなたの番です。あなたが悪いのに、自己正当化をしていませんか。責任転嫁をして人のせいにしていませんか。神は、無責任な人間にするためにあなたを造られたのではありません。
 あなたが「ごめんなさい」というのを主イエスは待っておられます。裏切りを考えている人がいますか。愚かなことはやめましょう。



3、パンとぶどう酒

 この後、主イエスはパンとぶどう酒の意味を語られました。人類の歴史で最初の聖餐式です。

 それから、みなが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、彼らに与えて言われた。「取りなさい。これはわたしのからだです。」また、杯を取り、感謝をささげて後、彼らに与えられた。彼らはみなその杯から飲んだ。イエスは彼らに言われた。「これはわたしの契約の血です。多くの人のために流されるものです。」(22~24節)

 主イエスの血が流れるときは、主イエスが死ぬ時です。血の一滴一滴は、主イエスの命です。私たちが本来流すべきだった血のしずくです。
 自分の命欲しさに主イエスを見捨てる弟子たちのために、主イエスは十字架にかかられました。イエスの血潮はユダのためにも流されたものです。

 「取りなさい。これはわたしのからだです。」(22節)

 私たちがすべきことは何でしょう。受けることです。主イエスの命を受けることです。主イエスの愛を受けることです。それが、主イエスが願っていることです。

 2000年9月15日、カリフォルニア州のあるキリスト教の大学でいつものようにチャペルの時間が来ました。大勢の学生たちが心から罪を悔い改めた出来事がその大学の歴史に何度もあったと説教者は語りました。それに応答して、学生が一人、また、一人と、自分の罪を正直に告白し始めました。やがては、自分の番を待つ人が長蛇の列となり1000人が自分の罪の話をして、大学の雰囲気が一新したといいます。
 主イエスに背いていた自分に気づき、自己正当化や責任転嫁をせずに、自分のぼろぼろの姿を真摯に見つめました。

 ユダに裏切られた主イエスは、今も、私やあなたによって裏切られ続けています。私たちは意図も簡単に主イエスへの約束を破ります。それでも、主イエスは私たちを見捨てない方です。

 わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない。(ヘブル13:5)
 イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも、同じです。(ヘブル13:8)

 →あなたの番です。
  □主イエスや大切な誰かを裏切ろうとしていませんか。止めましょう。
  □誰のせいにもせず、自分の罪を神の前で認めましょう。
  □主イエスの差し出されたパンとぶどう酒を受け取りましょう。