ルカ24:13~35 心が燃えるイースター

復活された主イエスに会いたいと思ったことがありませんか。実際に主イエスにお会いできたら、私たちの信仰は飛躍的に高められるはずだと誰しも思います。
 でも、主イエスを目の前にしても、それが主イエスだと気づかない人たちがいたのです。


1、 失望と疑い

 主イエスが十字架にかかられたのが金曜日、翌日が土曜、そして、日曜。その日曜日に、二人の男がエルサレムからエマオへと歩いていました。二人はイエス・キリストに従う弟子です。一人の名前はクレオパで、二人とも失望と疑いの中にいました。

 失望とは何でしょう。19~21節を見て下さい。

 イエスが、「どんな事ですか。」と聞かれると、ふたりは答えた。「ナザレ人イエスのことです。この方は、神とすべての民の前で、行ないにもことばにも力のある預言者でした。それなのに、私たちの祭司長や指導者たちは、この方を引き渡して、死刑に定め、十字架につけたのです。しかし私たちは、この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。(ルカ24:19~21)

 ローマ帝国からユダヤを解放してくれる人物が救い主だ。当時のユダヤ人の誰もがそう思っていました。ですから、主イエスが殺されたことは、二人にとって大打撃でした。
  「この方こそイスラエルを贖ってくださるはずだ、と望みをかけていました。」信じて来たが、期待が裏切られた。がっかりした。悲しくて力が出ない。それが二人の本音でしょう。

 二人の弟子が抱えていた疑いとは何でしょう。21~24節を見て下さい。

 事実、そればかりでなく、その事があってから三日目になりますが、また仲間の女たちが私たちを驚かせました。その女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらないので、戻って来ました。そして御使いたちの幻を見たが、御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです。それで、仲間の何人かが墓に行ってみたのですが、はたして女たちの言ったとおりで、イエスさまは見当たらなかった、というのです。」(ルカ24:21~24)

 23節は「と言うのです」、24節でも「というのです」と記されています。女たちの言うことは聞いたが、復活は信じられないという意味です。彼ら二人は混乱していました。信じたいが、信じられない。確信が持てない。
 二人が「暗い顔つき」(17節)になって急に立ち止まったのはもっともです。
 
 今日あなたは、失望と疑いの中にいますか。それなら、この二人と同じです。


2、横を歩く主イエス

 話し合ったり、論じ合ったりしているうちに、イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。(ルカ24:15)
しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。(ルカ24:16)

 後から加わった男性は、エルサレムでの話題沸騰の一大事件をまったく知らなかったのです。二人は、あまりの驚きからその人物の顔をまじまじと見たことでしょう。でも、その方が主イエスか分からなかったのです。「目がさえぎられていた」からです。

 主イエスが急に二人の正面に現れて、わたしだ、ほらこの手のひらを見てごらん、と語られたら、二人の悩みは霧散して、その場で喜び踊ったことでしょう。
 でも、主イエスはそうしませんでした。主イエスは、どんなお考えがあったのでしょうか。

 主イエスはそっと二人の横に行かれました。共に歩かれました。何を話しているのかと、その話に耳を傾けました。これが、主イエスのなさったことです。
 主イエスは、ふたりの嘆きを聞き、愚痴を聞き、否定的な言葉をきちんと最後まで聞かれたのでしょう。夕暮れ時まで、ずっと一緒にいて下さったのです。
 主イエスは、今日もそうして下さる方だと私は思いますが、あなたはどう思いますか。

 二人は胸に抱えている問題のすべてを言い尽くした後、主イエスは、はじめて口を開かれました。大変だったね、など同情しません。あなたたちは愚かだと言い切りました。

 「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光にはいるはずではなかったのですか。」(ルカ24:25~26)

 英語の聖書では「How foolish you are, how slow of heart to believe」(NIV25節)と訳しています。預言者たちの言葉を一つも聞いていないじゃないかと、叱責されたのです。

 主イエスは、旧約聖書を引用し、救い主である印は、第一に「苦しみを受け」ること、第二に「栄光にはいる」こと、つまりよみがえる事であると説明されました。以下は、主イエスが語られたかもしれないと私が推測した聖書箇所です。

 裏切られる→詩篇41:9、不正な裁判を受ける→イザヤ53:8、裁判で弁明しない→イザヤ57:3、捨てられる→詩篇118:22、銀貨30枚で売られる→ゼカリヤ11:12、十字架でとりなしの祈りをされる→イザヤ53:12、乾きを経験する→詩篇22:15、父なる神との分離の苦悩→詩篇22:1、骨が砕かれない→詩篇34:20、槍で突かれる→ゼカリヤ12:10、死んだままで終わらない→詩篇16:10

 主イエスの解説をその場で聞いてみたかったとあなたも思われるでしょう。

 主イエスが現れて、わたしだよと言われてこの二人の目を開く代わりに、旧約聖書の意味をこんこんと二人に説明されました。聖書を正しく知ることのほうが、よみがえられた主イエスに出会うことよりも大切だと主イエスはお考えになったようです。

 さあ、あなたも、主イエスのこのパターンを見習うことができます。失望している人の横に行くこと、話を聞くこと、そして、聖書を教えること。気落ちしている現代のクレオパがあなたの周囲にいませんか。



3、心が燃える時

 日も暮れてきたので、二人は同行者と夕食を共にしました。その人物の食前の祈りで、主イエスだと気がつきました。すると、主イエスの姿はもうそこにありませんでした。

 「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(32節)

 良く読みましょう。二人の心が燃えたのはいつですか。食事の席で、目の前におられる方が、復活された主イエスだと気づいた時、心が燃えたのですか。いいえ違います。

 同行者が誰だか分からない時に、すでに心は燃えていたのです。英語訳聖書では、32節を「he … opened the Scripture to us」と直訳しています。心で聖書が読めるようにしてくださるのが主イエスなのです。
 奇跡を見たり、特殊な経験をしたら心が燃えるのでしょうか。いえ、むしろ、聖書が開かれ、聖書の意味が分かったときにこそ、心の奥が力強く燃え上がるのです。
 
 第二次世界大戦で日本の敗北が近いと感じられる夏。お父さんと海岸を散歩していた男の子がいました。突然現れた米軍艦載機が機銃掃射をしてきたので男の子は地面に伏せ、お父さんは上から覆ってくれました。激しい機銃の音が去ると、男の子は動けませんでした。お父さんの体の下からもがくように這い出ると、お父さんの背中と頭部から激しい出血があり即死でした。
 助けられた男性は、毎年夏になるとその日のことを思い出すのだそうです。お父さんの背中に助けてもらったことを。

 主イエスは、私たちの身代わりになって十字架にかかって下さいました。身代わりとは、主イエスが死ななかったなら、私が死んだという意味です。主イエスがよみがえったのは、主イエスが間違いなく、聖書が預言していた救い主であるという意味です。
 私たちも、イースターのたびに、主イエスの愛を感謝し、よみがえられて私たちの横を歩いてくださる主イエスを思い起こしましょう。イエスさまありがとう。ハレルヤ!主はよみがえられた。

 →あなたの番です。
  □失望と疑いの中にいるなら、主イエスは横におられます
  □あなたのそばにいる現代のクレオパを励ましましょう
  □あなたの心を燃え立たせてくれる聖書を毎朝読みましょう

  「道々お話しになっている間も、聖書を説明してくださった間も、私たちの心はうちに燃えていたではないか。」(ルカ24:32)