マルコ14:32~42 ゲッセマネで

  悲しみの人、主イエスの最も苦悩に満ちた祈り、ゲッセマネの祈りに心を向けましょう。
 
世界的に有名な指揮者の小澤征爾は、音楽作品の9割が悲しいとか暗いという要素を持っていて、その悲しさが人間の共感を呼ぶという趣旨のことを語っています。
また、黒人奴隷として生まれ育ったフレデリック・ダグラスによると、奴隷が歌うのは悲しい時だけだったとその体験から述べています。
悲しみや暗黒が慰めを与えてくれる。そういうことがあるのでしょうか。

1、悲しみを表わせる正直さ

ゲッセマネとは、「油しぼり」という意味です。オリーブの木が多数植えられていた付近に主イエスと弟子達が入って行きました。もう夜です。ユダは祭司長のもとに向かったので、弟子は11人。そのうち8人の弟子が「わたしが祈る間、ここにすわっていなさい」(32節)と命じられました。この命令は、外敵に注意を払うという役割なのかもしれません。

そして、ペテロ、ヤコブ、ヨハネをいっしょに連れて行かれた。イエスは深く恐れもだえ始められた。(33節)
そして彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、目をさましていなさい。」(34節)

 主イエスというお方は、正直な方なのだと私は思います。悲しい時は、悲しいと言える。死にそうに辛いと素直に言える。主イエスは、建前で生きている人ではなく、最初からずっと、率直で、正直な方だったのです。
 私は、主イエスの苦悩を読んで、ある意味で慰められます。主イエスの肉体は私たちと同じなのだ。主イエスの心は、私たちと同じ弱さをお持ちなんだと。

主が悩むのはなぜでしょう。鞭打ち、屈辱、十字架刑の肉体的苦痛を予想しておられからでしょう。それだけでは、主イエスの恐れを理解したとは言えません。全人類が受ける罰を一身に受ける。その悲惨さは、主イエスだけが理解しておられます。また、父なる神と完全に分離される経験が、どれほどの暗黒かを知っておられのです。

最愛のご主人を失った一人の女性が、墓地に何度も訪ねるうちに、霊園内にあるキリスト像に目が留まりました。そこにあったのは、地にひれ伏して祈る白いキリスト像でした。主イエスの苦悩の姿を見ているうちに、この主イエスを知りたいという願いが起きたそうです。自分から教会を訪れ、やがてクリスチャンになりました。
ひれ伏して祈る主イエスの苦悩の姿は、不思議なことですが、私たちの心をなぐさめてくれます。



2、父さんと呼ぶ祈り

 主の祈りの最初の部分が素直な気持ちで口に出せない人がたまにいます。問題の箇所は、「天にまします我らの父よ」です。父親が飲んだくれや乱暴者で、母親を苦しめ、挙句の果てに蒸発したという父親を持つなら、そういう気持ちは理解できます。
 宗教改革者ルターも厳格な父から罰を受け、父親に対して良いイメージを持てなかったとも言われています。
あなたのお父さんはどんな人ですか。主イエスは、神を父と呼び、最もつらい時に、父なる神を呼び求めました。

それから、イエスは少し進んで行って、地面にひれ伏し、もしできることなら、この時が自分から過ぎ去るようにと祈り、またこう言われた。「アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(35~36節)

 アバとは、当事のユダヤ人が口から発する音で、「お父さん」を意味しますが、小さな子供が呼びかける時に使う、「お父ちゃん」というニュアンスがあります。神を父と呼ぶ。それは、当時のユダヤ人から見れば冒涜行為でした。主イエス独自のユニークな呼びかけでした。
 ローマ8:15では、私たちクリスチャンも御霊によって神を「アバ、父」と呼べると書いてあります。ガラテヤ4:6でも、神の子にされたので「アバ、父」と呼べると説明してあります。

 主の祈りの呼びかけ部分は、ルカ11:2によると、何の修飾語も付かない手「父よ」となっています。放蕩息子も帰って来たときに、「お父さん」(ルカ15:21)と呼びかけて罪の告白をします。

 あなたもちょとやってみませんか。親しみを込めてお父さんと呼ぶとき、あなたは何と呼びますか。その同じ言葉を今、口に出して、神に語りかけて下さい。はい、どうぞ、言って下さい。

 神は、あなたの父親です。あなたに、そう呼ばれることを待っておいでです。



3、みこころを選び取る祈る

 あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。」(36節)

 主イエスの祈りは、率直でした。振り子のように右に左に揺れる心をそのまま表現されました。あなたも、心にあるものをそのまま出して、祈りませんか。

十字架は、自分で飲み干さなければならない毒の入った杯と同じです。杯は飲みたくない。しかし、父なる神のみこころが何であるか、知っています。主イエスの使命が何であるかを見つめると、「杯」の最後の一滴まで飲み干す覚悟ができるのです。

あなたの番です。遠回りの道。かっこ悪いチョイス。長い間、棚上げにしてきた事。今まで勇気が出なかった事柄。そういうものがありませんか。

あなたの「お父さん」、神は、あなたに何を一番期待しておられるのでしょう。あなたの「お父さん」は、何を楽しみにしておられるのでしょう。
 
しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。(36節)



4、目を覚ませ

それから、イエスは戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「シモン。眠っているのか。一時間でも目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(37~38節)

 私たちは、全員、もれなく弱い。心も弱いし、肉体も弱い。だから、祈りが必要です。

イエスは三度目に来て、彼らに言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。もう十分です。時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」(41~42節)

父なる神に何でも祈られた主イエスは、準備が完了し、今、毅然と立っておられます。ゲッセマネに来られた当初と雰囲気が違います。祈りの勝利です。十字架の杯をすでに飲み干されたと言っても過言ではありません。

弱いと自覚しているなら、祈りましょう。
弱いと分かっているなら、誰かに祈りの要請をしましょう。
 祈って下さいと言える人は、祈りの力を知っている人です。
 祈って下さいと依頼できる人は、自分が果たすべき使命を自覚している人です。

あなたの番です。
 □神を、「父さん」と呼んで、祈ってみましょう。
 □あなたにとっての「杯」とは何ですか。それを飲み干しましょう。
 □誘惑に陥らないように、目を覚まして祈りましょう