マルコ14:26~31 私は大丈夫


   「私は大丈夫です」と強がりを言う人が、本当は不安で一杯ということがありますね。

1、強がり

そして、賛美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行った。(26節)

エルサレム市内の家で最後の晩餐を終えた主イエスと弟子たちは、賛美しました。裏切りと十字架刑を前にして歌うのです。これが主イエスの賛美です。過ぎ越しの祭りの時に歌う慣わしの詩篇113~118篇を歌ったのかもしれません。

主イエスと弟子たちは外に出ました。過ぎ越しの祭りは毎年満月のすぐ後なので、天気が良ければ月夜です。一行は、城壁を出てケデロンの谷を降り、オリーブ山を上り、ゲッセマネの園を目指しました。

イエスは、弟子たちに言われた。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる。』と書いてありますから。(27節)

旧約聖書ゼカリヤ13:7を引用された主イエスは、12弟子たち全員がつまずき、主イエスを見捨てて散り散りばらばらになると予告されました。

すると、ペテロがイエスに言った。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません。」(29節)

ペテロは、自分の決意の強さを表現しようとしましたが、結果的には、他の弟子はつまづくだろうと口を滑らせます。他の人よりはましという理屈を持ち出して自分を正当化しました。

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

まことにあなたがたに告げますという表現は、主イエスが大切なことを語るときの決まり文句で、マルコの福音書に12回使われ、そのうち「あなた」といって個人に向けられたのはこの箇所だけです。主イエスは、ペテロの返答を聞いて、きちんと言っておかなくてはとお考えになったのでしょう。

ペテロは力を込めて言い張った。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません。」みなの者もそう言った。(31節)

声を荒げる。無謀な約束をする。それが、弱い人の印です。

クリスチャンで、ケンブリッジ大学の文学者、C・S・ルイスは、「最も信頼できないものは、自分に対する信頼だ」と述べています。

あなたは本当の姿は、弱い人ですか。あなたは内側は空虚ですか。

自分の不完全さやもろさに気づく事は、他人に優しくなるためのスタートラインです。自分のありのままの姿を主イエスの視点で見られる人は、外側を飾る必要がなく、謙虚になれます。


2、待っている

「まことに、あなたに告げます。あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います。」(30節)

主イエスは、かなり詳細にペテロの失敗を予告しました。夜明けまでの数時間のうちに失敗する。主イエスを知らないと3回言う。その直後に鶏が2回鳴く。それは、何のためでしょう。ペテロが立ち直るための布石なのです。最初から知っていたよ、それでも、あなたを見捨てないという愛がにじみ出ている言葉なのです。

白浜バプテストキリスト教会の藤藪庸一牧師は、三段壁で自殺者を救出する働きを13年間続けておられ、自殺から救い出した人数は500人を越えました。先代の江見牧師から引き継いだ働きで、社会的にも大きく認められた働きです。
助けた人の話を聞き、食事を与え、宿を提供しても裏切られるという体験もあるはずですが、相談に来た人を100%信じるという基本姿勢を持っておられることは本当に立派だと思います。倒れた人が立ち上がれるように全面支援をされる姿と、主イエスのペテロに対する姿勢に何か不思議な関連があるように私には思えます。

主イエスが言われた言葉に再び目を留めましょう。

しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます。(28節)

28節は、主イエスがペテロたちを見捨てないという証しの言葉です。裏切るペテロたちと再会する予定だと言われます。
どんなに口で立派なことを言っても、自分かわいさで弟子たちが失敗してしまうのは分かり切っています。でも、そんなあなたたちを見捨てはしない。復活後に、ガリラヤで会おう、というのが主イエスのメッセージです。

「あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」実際に主イエスが口から発した言葉はもう少し、色や臭いのある言葉でしょう。ガリラヤで待っている、先にいくぜ。そんな雰囲気が漂う場面です。後ろを振り向かずに先に歩き出すような主イエスの姿を、心の目に焼きつけましょう。

主イエスは、弟子たちを育て、弟子達に将来を託しました。過保護とは程遠い、豪快な人材養成法です。

アラバマ州に7歳の女の子がいました。親はその子のわがままに手を焼き、20歳の女性家庭教師を招きました。女の子は、手に触れるものは何でも壊すような子で、食事中び人の皿に手を突っ込み、スプーンを床に投げつけるほどでした。ある日、その家庭教師は、女の子に指導する際にもみ合いになり、取っ組み合いの喧嘩にまでなりました。その晩、自分の部屋に戻った家庭教師は、ベッドに身を投げ出し、思い切り泣きました。でも、心でこう誓ったのです。私が教えることのできる二つの本質的なこと、つまり、服従と愛を彼女が学ぶまで、あの子とまた何度も取っ組み合いをする必要があるでしょう。
この家庭教師がアン・サリバン、女の子がヘレン・ケラー(1880年生まれ)です。2歳ごろの高熱で視力を聴力を失い言葉を学べなかったヘレンは、親が甘やかしたため自己中心で手に負えない子になりました。サリバン先生が、愛を持って教えたおかげで、やがては大学を出て、立派な教育者、社会福祉事業家になりました。

私たちは、大声を出す必要もない、実現不可能な約束をする必要もない、誰かの欠点を指摘して自分を相対的に高める必要もない。今のあなたのまま、主イエスについて行きましょう。

主イエスがあなたを待っている場所はどこですか。

しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。(ルカ22:32)

あなたの番です。
□強がらず、弱くて空虚な自分の姿を認めましょう
□主イエスは先に行って待っておられます
□主イエスが待っておられる場所に出かけましょう