ヨシュア記20:1~9  のがれの町



 約束の地が12部族に分割された後、のがれの町が設置された。
ヨルダン川の西側に3つの町、南から、死海西側のヘブロン、エフライムの山地のシェケム、ガリラヤ地方のケデシュ。ヨルダン川東側にも3つ、南から、ベツェル、ラモテ、ゴラン。(ヨシュア20:7~8)
今日は、のがれの町の意味について考えよう。

1、人は失敗することがある

あやまって、知らずに人を殺した殺人者が、そこに逃げ込むことのできるようにしなさい。その町々は、あなたがたが血の復讐をする者からのがれる場所となる。(ヨシュア20:3)

 どんなに真面目な人でも、失敗を避けることはできない。「あやまって」とか、「知らずに」ミスを犯す。場合によっては殺人者になる可能性もある。
 大切な人を殺されたなら、身内の人は感情を抑え切れずに復讐するだろう。その危険から守るために、のがれの町が作られた。
これは、神が定められた制度だ。(出エジプト21:13、民数記35:9~15)のがれの町というシステムの中に、神のあわれみ、神の愛を見ることができる。

 神は、私たちの弱さを知っていてくださるのだ。
私たちが失敗した時でも、神は私たちを守ってくださる。

 誰かが失敗をした時、あなたはどうしてきましたか。きちんとやらないからだとお説教しますか。失敗をくどくどと責めますか。それとも、割れた皿をいっしょに集めてあげますか。
真面目な人ほど、人の失敗を厳しく責める傾向がある。気をつけよう。今週は、誰かの失敗に寛容になって、励まし、応援する人になろう。神は、のがれの町を作ってくださる方だ。

 東京で電車に乗っていたとき、持っていた二つのスーツケースに気を取られ、大事な物の入った鞄を棚に置き忘れたことがありました。身軽だなとホームで気づいた時には電車は行ってしまった後でした。この失敗を身近な人に話すと同情してくれて、祈ってくれました。それにどれだけ助けられたかしれません。
 失敗した人は、一番後悔し、自分を責めているものです。必要なのは、励ましです。


2、告白

人が、これらの町の一つに逃げ込む場合、その者は、その町の門の入口に立ち、その町の長老たちに聞こえるように、そのわけを述べなさい。彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)

 過失で誰かを殺してしまった人は、のがれの町に逃げ込み、復讐する者から守ってもらえる。けれども、門の入り口で必ずしなければならないことがある。自分のしたことを、はっきりと、正直に、洗いざらい話す必要がある。これは、のがれの町に逃げ込むためにはどうしても必要なこと。

 たとえば、木を切ろうと斧を振り上げたとき、誤って柄から斧の頭が抜け、それが友人に当たり死んでしまいました(申命記19:5)と門で言うのだ。

 私たちは、自分のした失敗を正直に、洗いざらい話す必要があります。あなたは、誰にそれを話しますか。何を話しますか。つらくても、包み隠さず話すことが次への道になる。


3、大祭司が死ぬ時まで

 過失致死となる事故を犯して逃げて来た人は、のがれの町から出てはいけません。もし、町から出て、復讐する者に見つかったなら、命の保障はありません。けれども、例外がありました。大祭司が死んだときは自分の町に帰ることができました。

その者は会衆の前に立ってさばきを受けるまで、あるいは、その時の大祭司が死ぬまで、その町に住まなければならない。それから後、殺人者は、自分の町、自分の家、自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節)

 なぜ、逃げ込んだ人が自分の町に帰れるのでしょう。
 大祭司の死が、犯した罪のあがないとなるからです。みがわりの死です。

 これは、イエス・キリストの十字架を予告する制度です。
 私たちにとって、主イエスがのがれの町なのです。

  「自分が逃げて来たその町に帰って行くことができる。」(6節) この言葉に大きな慰めと励ましが込められています。逃げ出して来た町に、再び戻れる日が来るのです。人生をやり直すことができるのです。大祭司の死によって、誰かが生き返るのです。

→あなたの番です。
 □誰かが失敗したとき、責めずに慰めてあげよう
 □自分が失敗したとき、神に告白しよう
 □イエス・キリストのみがわりの死に感謝しよう 

彼らは、自分たちの町に彼を受け入れ、彼に一つの場所を与え、彼は、彼らとともに住む。(4節)