ピリピ2:6~11  仕えるためのクリスマス



クリスマスは、神が人となられた日です。


1、捨てる

ピリピ人への手紙を読むと、クリスマスにどんな意味があるのかが分かります。

「キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで」(ピリピ2:6)

主イエスは、クリスマスに何かを捨てました。
何を捨てたのでしょう。神であることを捨てたのです。それがクリスマスです。

一人では生きていけない、一人では何もできない赤ちゃんの姿となって生まれて来たのです。

 私はあるお母さんを知っています。歯医者さんに行って、健康な歯を全部いっぺんに抜いて下さいとお願いしました。総入れ歯にするためです。詳しく説明する字数がありませんが、弱さを持って生まれた赤ちゃんを育てるためには、その道しかなかったのです。

あなたも、何かを捨てる必要に迫られるかもしれません。もしあなたが、自分の意思で何かを捨てるなら、それは、失うのだけではありません。見えない世界で何かを得ているのです。

 何かにしがみつくから失敗するのです。自分の意思で、捨てましょう。誰かを愛しているなら捨てられます。



2、下る
 
 主イエスは、下りました。上から下に降りました。

「ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。」(7節)

主イエスは、人間になりました。私たちとまったく同じ人になられたのです。弱さも、孤独も、痛みも、誘惑も、私たちとまったく同じです。

若いお父さんは、子供の誕生に戸惑い、おしめを代えるという「試練」で打ちのめされます目。離乳食を食べるようになると、赤ちゃんのうんちが大人に近づき、「俺にはできない、助けてくれ、紙おむつの取替えは無理だ」と大抵のお父さんが音を上げます。
私も苦労しました。はっきり言いましょう。プライドがじゃまして、おしめを代えることができないのです。俺がやることじゃないと思うのです。そこから、降りてみましょう。プライドを捨てましょう。下ってみましょう。

捨てることは、通常は、私たちの一部を失うことです。下るということは、私たちのプライドを捨てるということです。プライドとは、自分自身です。
下ることによって、不自由になります。下ると、ばかにされます。下ることにより、自分が本来の自分でない気持ちがします。

自分から、降りてみましょう。下に行ってみましょう。誰かと同じところに立ってみましょう。今まで見てきた世界がどんなに傲慢だったか気がつきます。



3、死ぬ

「キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。」(8節)

捨てることは自分の一部を失うことで、下ることは自分のプライドを捨てることで、死ぬことは自分の最も大事なものを誰かのために使い尽くしてしまうことです。
主イエスは、私たちの罪を身代わりに背負い、私たちの受ける罰を受けてくれました。文字通り、私のために生まれ、私のために死んでくれた方なのです。

 十字架は屈辱と恥を伴う刑でしたので、当時の特権階級であるローマ市民はどんな悪人であっても十字架刑にはなりません。ユダヤ人の目から見るなら、十字架刑は神にのろわた者の印でした。(申命記21:23「木につるされた者は、神にのろわれた者だからである」、ガラテヤ3:13)

 主イエスが十字架についたという事実は、神の愛がどんなに広く深いかを表わしています。

リー・ストロベルは、シカゴトリュビューンの新聞記者で無心論者でした。ある年の11月、シカゴの西部に住む貧しい家族を訪ね、その様子を記事に書きました。60歳の祖母が11歳と13歳の孫と暮らしていました。部屋には食卓があるだけで、何もありません。シカゴの冬は寒いのです。でも孫娘たちは半そでの衣類しかなく、1枚あったグレーのセーターも薄手のものでした。祖母のデルガドスさんは主イエスを信じていて、イエスさまは私たちを見捨てる方ではないと語っていました。
ストロベル氏がクリスマスイブにその家を訪ねました。部屋は、新聞読者が送ってくれたプレゼントであふれ、電気製品、家具、暖かい衣類、食料、クリスマスツリー、そして現金が届いていました。デルガドスさんは言いました。感謝してるよ。でも、私らが働いて稼いだものじゃないんだ。プレゼントなんだ。近所には貧しい人がたくさんいる。だから、これから、届けようと思っている、と話しました。ストロベル氏は、その発言と行動に心を揺さぶられました。デルガドスさんは続けました。一番すばらしいプレゼントは、クリスマスに生まれてくださったお方、イエスさまだよ、と心から言うのでした。

→あなたの番です
□捨てる、下る、死ぬ。主イエスがして下さったことに感謝しましょう。
□今週、誰かに仕える人にさせてもらいましょう