第1テサロニケ3:1~13 慰める時、慰められる時


 あの人を慰めてあげたい。
 自分自身が、慰めの言葉をもらいたい。
 あなたは今日、どちらですか。

 パウロは、テサロニケの人々を慰めようとしてテモテを派遣しました。テサロニケの人々の苦難の大きさを心配して、居ても立っても居られなかったのです。戻って来たテモテから良い知らせを聞いて、むしろパウロが慰められ、嬉しくなり、生きている実感を取り戻しました。それで、テサロニケの人々のために心を込めて祈りました。これが3章の内容です。

1、苦難に会う定め(1~5節)
 
それは、あなたがたの信仰についてあなたがたを強め励まし、このような苦難の中にあっても、動揺する者がひとりもないようにするためでした。あなたがた自身が知っているとおり、私たちはこのような苦難に会うように定められているのです。あなたがたのところにいたとき、私たちは苦難に会うようになる、と前もって言っておいたのですが、それが、ご承知のとおり、はたして事実となったのです。(第1テサロニケ3:2~4)

 ある国で活躍する一人の牧師さんから私は直接話を聞いたことがあります。礼拝中に投石され、教会を千人の人に取り囲まれ、誹謗チラシを町中に配られたというのです。現代でも、テサロニケのような状況にあるクリスチャンたちがいます。

パウロは悲観主義者ではなく現実主義者でした。「私たちはこのような苦難に会うように定められている。」と述べています。試練は避けられないし、驚くな(第1ペテロ4:12~14)とペテロも語っています。苦難に遭う定めはテサロニケの人々ばかりでなく、パウロも含まれていたので「私たち」と書いています。事実、パウロはこの手紙を執筆時も迫害の危険の中にいました。

パウロは以上のような視点を持っていますが、第1コリント10:13のように、試練とともに脱出の道があるとも語っています。

 あなたは、今、苦難で心がくじけそうですか。キリストゆえの苦しみがあるなら、キリストの慰めが必ずあります。

 神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。こうして、私たちも、自分自身が神から受ける慰めによって、どのような苦しみの中にいる人をも慰めることができるのです。それは、私たちにキリストの苦難があふれているように、慰めもまたキリストによってあふれているからです。(第2コリント1:4~5)


2、喜びの知らせ(6~9節)

 テモテが帰ってきました。テサロニケの良い知らせを届けてくれたのです。パウロが福音を伝えなければこんな苦しみに遭わなかった、と言ってパウロに反発する人は一人もいませんでした。むしろ、パウロに会いたがっていました。

このようなわけで、兄弟たち。私たちはあらゆる苦しみと患難のうちにも、あなたがたのことでは、その信仰によって、慰めを受けました。あなたがたが主にあって堅く立っていてくれるなら、私たちは今、生きがいがあります。(7~8節)

パウロは、テサロニケの人々を慰めようと努めましたが、結局、パウロ自身が慰めと喜びをもらいました。

あなたが今、誰かを応援して、育てているなら、あなた自身も必ず苦しみます。でも、種をまいて手塩にかけて育てた農夫だけが収穫の喜びを体験するのです。「労苦した農夫こそ、まず第一に収穫の分け前にあずかるべきです。」(第2テモテ2:6)神こそが、私たちの成長を喜んでいて下さる農夫なのです。「わたしはまことのぶどうの木であり、わたしの父は農夫です。」(ヨハネ15:1)
あなたの周囲の人を育てましょう、サポートしましょう、そして、農夫である神を信頼してその人の成長を御手に委ねましょう。




3、とりなしの祈り(10~13節)

パウロは祈りました。「私たちは、あなたがたの顔を見たい、信仰の不足を補いたいと、昼も夜も熱心に祈っています。」(10節)また、テサロニケ訪問の道が開かれるよう(11節)にと祈りました。12~13節では、テサロニケの人々の愛がさらに増し加わり、聖い生活がおくれるようにと神に願いました。

また、私たちがあなたがたを愛しているように、あなたがたの互いの間の愛を、またすべての人に対する愛を増させ、満ちあふれさせてくださいますように。また、あなたがたの心を強め、私たちの主イエスがご自分のすべての聖徒とともに再び来られるとき、私たちの父なる神の御前で、聖く、責められるところのない者としてくださいますように。(12~13節)

 とりなしの祈りが目指すものは、主イエスの前に喜んで立てることです。
 祈るポイントは二つ。愛と聖さです。迫害の苦しさが増すと、自分だけが助かりたいと考えるものです。それで、愛が豊かになるように祈るのです。
 迫害の苦しみは大きなストレスを与えます。誘惑に負けたり、欲望に負けたりしやすくなります。だからこそ、聖さを保てるようにと祈るのです。

第1テサロニケ3章は、人を育てるパウロの苦悩と喜びと祈りが書いてありました。結局のところ、慰めようとした人が、慰められるのです。

ご主人に先立たれた若いクリスチャン女性が、悲しみで毎日押しつぶされていました。あるクリスチャン女性が声をかけてくれて、「ご主人が亡くなって半年ですか、これからもっと辛くなるね」と言ってくれました。その言葉に慰められました。同じく夫を失った人の言葉だったので、とても勇気づけられました。その後、同じ悲しみを背負ったクリスチャン女性が集まり、語り合い、祈り合ううちに、グリーフグループを立ち上げることになりました。悲しみに押しつぶされていた彼女は、今では、多くの人の悲しみに寄り添う人になっています。
慰めを受けた人が、いつしか、慰める人になるのです。主イエスの御手の中で。

私たち皆、慰めが必要です。
そして、慰める人になれます。

→あなたの番です
□苦難の中に、キリストの慰めあり
□農夫の苦しみは、収穫の喜びに変わる
□とりなしの目指すもの:主イエスの前に立てる人