第1コリント5:1~13 トゲは取り除く


 トゲが刺さった時どうしますか。針で出したり、カッターナイフで切開して取り除きますね。
第1コリント5章で、パウロが言いたいことは、そういうことです。たとえ痛くても、取り除かなくてはいけない事があるのです。

1、放置された不道徳

 あなたがたの間に不品行があるということが言われています。しかもそれは、異邦人の中にもないほどの不品行で、父の妻を妻にしている者がいるとのことです。(1節)

 源氏物語の基本テーマは、絶世の美男子の光源氏が父の後妻「藤壺」と道ならぬ関係になるという物語で、禁断のストーリーであるがゆえに文学的な価値が上がるわけですが、コリント教会ではそれが小説ではなく現実になりました。父の再婚相手の若い妻、あるいは父の不倫相手と関係を持ち、夫婦同然のような姿で教会の礼拝に出入りしていたクリスチャンがいたようです。

 旧約聖書はこれを罪と断じています。「あなたの父の妻を犯してはならない。」(レビ記18:8)、「自分の父の妻をめとり、自分の父の恥をさらしてはならない。」(申命記22:30)

 それなのに、あなたがたは誇り高ぶっています。そればかりか、そのような行ないをしている者をあなたがたの中から取り除こうとして悲しむこともなかったのです。(2節)

 コリント教会は、ある種、異常でした。破廉恥な罪を重ねたクリスチャンに対して、忠告したり処罰することなく黙認し、いやむしろ、信仰がもたらした自由の姿だと賞賛する雰囲気があったのです。

 パウロはその場にはいないけれど、「主イエスの権能を持って」(4節)除名処罰を決めたと述べているのです。これは、パウロの判断というより主イエスのお考えに基づいています。

また、もし、あなたの兄弟が罪を犯したなら、行って、ふたりだけのところで責めなさい。もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです。もし聞き入れないなら、ほかにひとりかふたりをいっしょに連れて行きなさい。ふたりか三人の証人の口によって、すべての事実が確認されるためです。それでもなお、言うことを聞き入れようとしないなら、教会に告げなさい。教会の言うことさえも聞こうとしないなら、彼を異邦人か取税人のように扱いなさい。(マタイ18:15~17)

 主イエスは段階的なアプローチを教えています。個人で罪を指摘、2~3人で説得、最後は教会レベルで悔い改めを勧めます。それで、だめなら、除名処分とします。これは、礼拝に出られず、聖餐にあずかれない苦痛の中で、我に帰ることを期待する最終処置です。肉が滅ぼされても霊が救われることを望む(5節)というのは、こうした意味を持っています。

 「取り除こうとして悲しむ」(2節)。それが必要な時があります。


2、わずかなパン種が

あなたがたの高慢は、よくないことです。あなたがたは、ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませることを知らないのですか。新しい粉のかたまりのままでいるために、古いパン種を取り除きなさい。あなたがたはパン種のないものだからです。私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです。ですから、私たちは、古いパン種を用いたり、悪意と不正のパン種を用いたりしないで、パン種のはいらない、純粋で真実なパンで、祭りをしようではありませんか。(6~8節)

 パン種とは今で言えばイーストとか酵母菌のことで、パン種を入れてパンを焼くと膨らみますが、パンは日持ちしません。ユダヤ人の「過ぎ越しの祭り」においては、パン種が腐敗の原因、悪や罪を象徴するものと理解されていました。

ユダヤ人の祭りでもっとも大切なのが春の「過ぎ越しの祭り」ですが、祭りの前日に<パン種>を家中から除去します。パン種を入れないおせんべいのような固いパンを焼いて、急いでパンを焼いてエジプトを脱出した時の主の恵みを思い起こします。

 「ほんのわずかのパン種が、粉のかたまり全体をふくらませる」(6節)

 コリント教会においては、不品行の罪を犯していた人物の罪を指摘し、場合によっては処罰することが、古いパン種、悪い影響を与えるパン種を取り除くことになるのです。

 過ぎ越しの子羊であるイエスさまが十字架でほふられたのですから、私たちの実質は、「パン種のないもの」(7節)とされています。もし、古いパン種があるなら、主にきよめていただきましょう。
 私たちにとって、パン種とは何でしょう。


3、厳しさの中の愛

 私が書いたことのほんとうの意味は、もし、兄弟と呼ばれる者で、しかも不品行な者、貪欲な者、偶像を礼拝する者、人をそしる者、酒に酔う者、略奪する者がいたなら、そのような者とはつきあってはいけない、いっしょに食事をしてもいけない、ということです。(11節)

この手紙の前にパウロはもう一つの手紙を書いていましたが、現存しません。罪を重ねる人と交際するなと書いたのですが、その内容が誤解・曲解されました。パウロの主旨は、クリスチャンと自称していても、罪を繰り返し、良心が麻痺し、善良なクリスチャンに悪影響を与えるような人々、つまり除名された人とは付き合うなという事でした。それは、主イエスがマタイ18:15~17で言われた事に通じます。

冒頭で、5章の内容は、刺さったトゲを抜くことだと書きました。トゲを放置すれば化膿します。同じように、不品行を犯した人を放置すると、本人もダメになり、周囲の人にも悪影響が及びます。厳しい処置になっても、きちんと対処が必要なのです。

主イエスが言われたように、「もし聞き入れたら、あなたは兄弟を得たのです」(マタイ18:15)という未来を信じて、動きましょう。本当の愛は、厳しさを伴うほど本気の愛です。

→あなたの番です
 □罪や悪を取り除く悲しみを大切に
 □わずかなパン種が全体をふくらます
 □「兄弟を得る」日を信じる