第1コリント6:1~20 混乱


 「それでもクリスチャンか」と疑いたくなる人がいます。仲間をだまして金を取る、それを逆切れして復讐の鬼になる、遊女のところに頻繁に通う。そんな人々が実際にいたのでコリント教会は混乱していました。パウロは、どんなふうに対処するのか6章を見てみましょう。

1、きよめられた者として

ところが、それどころか、あなたがたは、不正を行なう、だまし取る、しかもそのようなことを兄弟に対してしているのです。(8節)

 クリスチャンがクリスチャンの仲間に不正を働き、金銭をだまし取りました。このトラブルが裁判に持ち込まれたため一般人の陪審が教会内の人間関係まで知ることになりました。これが6章前半で取り扱われる問題です。

あなたがたの中には、仲間の者と争いを起こしたとき、それを聖徒たちに訴えないで、あえて、正しくない人たちに訴え出るような人がいるのでしょうか。(1節)

 「ごく小さな事件」(2節)なので、知恵と愛を持って両者の間に入れば、また被害者が寛容な心を持てば解決できました。「不正をも甘んじて」受けること、あるいは、「だまされて」(7節)いることを勧めるのは寛容や赦しを教えたかったのです。

 あなたがたは、正しくない者は神の国を相続できないことを、知らないのですか。だまされてはいけません。不品行な者、偶像を礼拝する者、姦淫をする者、男娼となる者、男色をする者、盗む者、貪欲な者、酒に酔う者、そしる者、略奪する者はみな、神の国を相続することができません。(9~10節)

 だました張本人は、「盗む者、貪欲な者」(10節)というクリスチャンになる前の生き方に逆戻りしていました。だまされた人も「そしる者」(10節)、あるいは、復讐の鬼という醜い自我に戻ってしまい、赦しや寛容さを忘れています。

 不正をするな、また、だまされたら赦しなさいと教えるには根拠があるのです。

 あなたがたの中のある人たちは以前はそのような者でした。しかし、主イエス・キリストの御名と私たちの神の御霊によって、あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義と認められたのです。(11節)
 
私たちクリスチャンは、かつての悪い習慣から洗いきよめられた者なのです。主イエスの十字架により、聖霊の助けにより、義とされ、きよい心をもらっている者なのです。だから、不正をしないし人を赦す者になれるのです。


2、体は神の栄光をあらわすためにある

 「知らないのですか。」という言葉が6章で5回使われています。(2、9、15、16、19節)知恵を誇るコリントのクリスチャンが、どれほど無知で愚かであるかをパウロが指摘しているのです。後半、12~20節のテーマは、クリスチャンが遊女と関係を持つ事です。

<すべてのことが私には許されたことです。>しかし、すべてが益になるわけではありません。<私にはすべてのことが許されています。>しかし、私はどんなことにも支配されはしません。<食物は腹のためにあり、腹は食物のためにあります。>ところが神は、そのどちらをも滅ぼされます。からだは不品行のためにあるのではなく、主のためであり、主はからだのためです。(12~13節)

<  >でくくった部分は、コリント教会の人々の主張です。コリント教会の一部の人は、おかしな知識や哲学の影響を受けて、要約すれば以下のように述べていたのです。

クリスチャンは解放されたので、タブーは存在しない。何をしても良い。食欲を満たすために食べ物があるように、性欲を満たすために遊女がいる。遊女とセックスしても汚れるのは体だけで魂には関係がない。

こうした考え方は間違いです。

神は主をよみがえらせましたが、その御力によって私たちをもよみがえらせてくださいます。あなたがたのからだはキリストのからだの一部であることを、知らないのですか。キリストのからだを取って遊女のからだとするのですか。そんなことは絶対に許されません。遊女と交われば、一つからだになることを知らないのですか。「ふたりの者は一心同体となる。」と言われているからです。しかし、主と交われば、一つ霊となるのです。不品行を避けなさい。人が犯す罪はすべて、からだの外のものです。しかし、不品行を行なう者は、自分のからだに対して罪を犯すのです。(14~18節)

肉体と魂を分離する考え方は、罪を肯定するための詭弁です。体の結び付きを含む結婚関係は最も深い絆を与えます。主イエスを信じて主イエスとつながることは、それより深い一体感を与えます。ですから、私たちの体がキリストの体の一部とされているので、遊女と一体になるなどもっての他なのです。

「自分の人生だから何をしても勝手だろう」と嘘ぶいて性道徳を逸脱する若者がいます。実は、その母親は強力に反論できるのです。「何を言っているんだい。だれがあなたのおむつを代えて、食べさせ、守り、寝かせてやったんだい。おまえ一人では生きてきたんじゃない。あんたの人生も命も、自分のものだと言う権利はないんだ」と言えるのです。パウロも言います。

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。(19~20節)

銀行からお金を借りて家を買ったなら、我が家と呼んでも銀行のものです。私たちも、「自分自身のものではない」(19節)のです。神に買い取られた者で、神に育てられ、守られてきた者なのです。だから、神の栄光をあらわすために生きるのです。

若い男性社員が営業成績が良かったので社長がごほうびだといって、怪しげなところに連れて行ったそうです。社長は酒が入って良い気分になり、今日の箇所のように遊女と関係を持つように勧めたそうです。クリスチャンの彼は、酔った社長をバイクの後部席に乗せ、自分の体に紐でしばり付けて、その場を去りました。彼は、彼の方法で神の栄光をあらわしました。

誰が見ていなくても、きよく生きましょう。正直者は馬鹿をみるではなくて、正直者を見て世間が神の栄光を見るのです。人に愛を示しましょう。人を赦しましょう。ダメージを受けた人だけが赦す権利があるのです。そのようにして、キリストが愛だと世界に示しているのです。人の評価などどうでもよいのです。

「神の栄光をあらす」という抽象的な表現だけで足踏みしている人が多いです。神の栄光をあらわす。それは、あなたにとってどんな事ですか。行動しましょう。

→あなたの番です
□かつての罪の生き方に逆戻りしてませんか
□私たちは、洗いきよめられた者であり、自分のものではない
□何をしたら神の栄光をあらわせますか