第1コリント7:1~40 ああ、結婚


 コリント教会の人々は手紙で結婚について質問してきました。
 パウロがその質問に答えたのが7章です。全体の要約とパウロの回答パターンを確認してから、鍵になる2つテーマを取り上げます。

1、アウトライン

 1)夫婦間のセックスレスは妥当か。回答:NO(1~6節)
 2)独身者としての賜物(7~9節)
 3)離婚しても良いか。回答:NO(10~11節)
 4)結婚相手が未信者なので離婚しても良いか。回答:NO(12~16節)
 5)召された姿で生きる(17~24節)
 6)危急の時の例外として、結婚しない道がある(25~38節)
 7)死別の場合、再婚の道がある(39~40節)


2、パウロの回答パターン

 次に、すでに結婚した人々に命じます。命じるのは、私ではなく主です。妻は夫と別れてはいけません。――もし別れたのだったら、結婚せずにいるか、それとも夫と和解するか、どちらかにしなさい。――また夫は妻を離別してはいけません。(10~11節)

 パウロの回答パターンを確認しておきましょう。
 <何かの質問を受ける→イエスかノーを言う→その理由を述べる>
 主イエスや聖書が明確に語る事柄については、10節のように「命じるのは、私ではなく主です」とパウロは根拠を明らかに示しています。聖書の言及がない事項は聖書の原則に照らし合わせたパウロの判断となっています。

 夫だけとか、妻だけとか限定せず、夫にも妻にも同じ権利があることを注意深くパウロは述べています。弱い立場の女性の権利を、男性同様に認めたことは特筆すべきことです。

 なお、25~38節に結婚しないようにと勧めていますが、これは、「危急のとき」(26節)とあるように、コリント教会の特殊状況を考慮した限定的措置です。夫婦の信者が迫害を受けると、妻が拷問にかけられ、夫の信仰を捨てさせるという「その身に苦難を招く」(28節)場合が起きるからです。


3、聖書が教える結婚の大原則

 『それゆえ、人はその父と母を離れて、その妻と結ばれ、ふたりの者が一心同体になるのだ。』と言われたのです。それを、あなたがたは読んだことがないのですか。それで、もはやふたりではなく、ひとりなのです。こういうわけで、人は、神が結び合わせたものを引き離してはなりません。(マタイ19:5~6)

 主イエスが言われた言葉と聖書全体から、神が意図した結婚の大原則を確認します。
1)神が結婚制度を作られた
2)セックスは夫婦にだけ与えられた愛情表現であり、尊く、良いもの
3)結婚すると一つになる
4)離婚してはいけない

 それで、離婚はいけない(第1コリント7章10~11節)、死別の場合には再婚の道がある(39~40節)という結論が導き出されます。

 ここに超強力な接着剤があるとします。私の手と妻の手にその接着剤を塗って、手のひらを合わせると考えて下さい。もう離れません。離せません。結婚とは、そういうものなのです。


4、私はあなたのもの

 コリント教会では極端な禁欲主義が流行していました。それが原因で出てきた質問は、夫婦間でセックスレスを続けて良いか、また、配偶者が信者でないから離婚しても良いかという質問です。パウロの回答は、どちらも、ノーでした。聖書が教える夫婦の教えに反するからです。

 夫は自分の妻に対して義務を果たし、同様に妻も自分の夫に対して義務を果たしなさい。妻は自分のからだに関する権利を持ってはおらず、それは夫のものです。同様に夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。(3~4節)

 「夫も自分のからだについての権利を持ってはおらず、それは妻のものです。」これはとても強い言葉ですが、結婚の本質を突いています。

 旧約聖書の雅歌を読むと分かるように、夫婦を結びつける特殊接着剤の一つがセックスなのです。結婚外の性関係は偽りの密着感を作ってしまうので、聖書は厳しく禁じます。
 夫婦間でのセックスレスは間違っています。体は自分のものでなく結婚相手のものだからです。その拒絶状態が続くと「サタンの誘惑」(5節)が強くなると警告しています。
 パウロは5節で、①合意があり、②しばらくの期間だけ、③再び元に戻る、という3つの条件が満たされ、祈りに専念する時にだけに例外的に容認しています。

 「人間は自分自身の所有者ではありえない」これは哲学者イマヌエル・カントの言葉です。6章で、私たちの体は私のものではないと学びました。7章では、私たちの体は配偶者のものだと教えられます。


5、召された姿で生きる

独身、結婚、離婚、死別、再婚、一人一人みな生き方が違います。

ただ、おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです。私は、すべての教会で、このように指導しています。(17節)

「召された」という言葉が、17節、18節、18節、20節、21節、22節、24節で繰り返されました。召された。ということは、神が目的を持って配置されたという意味です。だったら、置かれた所で私らしく咲きましょう。
 割礼の有無、奴隷と自由人。この二つの事例(18~22節)を用いて、パウロは他人の真似をするな、うらやむなと教えています。「奴隷の状態で召されたのなら、それを気にしてはいけません。」(21節)

私の願うところは、すべての人が私のようであることです。しかし、ひとりひとり神から与えられたそれぞれの賜物を持っているので、人それぞれに行き方があります。(7節)

独身者として生きる、夫婦で生きる、死別の悲しみを通る、一つ一つは神が下さった賜物ととらえましょう。高慢になる理由もないし、自己卑下する根拠もありません。人と比較せず、召された事実を感謝して、「ひたすら主に奉仕」(35節)しましょう。

「実写版のシンデレラの映画を見に行きたいけど、一緒に行く?」と先週、妻は尋ねてきました。「お姫様映画に興味はないよ」と昔なら言うところ、なぜか行きたくなりました。<私はあなたのために生きている>というフレーズが心にあったからです。
誰もが知っている物語を飽きさせず見せてくれました。魔法が解けて、薄汚れた下女に戻ったシンデレラは、王子さまと再会してこう言いました。このままの私を受け入れてくれますか。このシーンに私は感動しました。

私たちは、そのままの姿で主イエスに受け入れられています。今の立場は神によって召されたものです。私だけの舞台で、私らしく、「ひたすらに主に奉仕」(35節)したいですね。

兄弟たち。おのおの召されたときのままの状態で、神の御前にいなさい。(24節)

 →あなたの番です
  □私は妻のもの。私は夫のもの。
  □召された場所で私らしく咲く。