創世記22:1~24 試練。テスト。


 今日は試練について考えます。今、あなたは試練の中にいますか。

1、神から来た試練

これらの出来事の後、神はアブラハムを試練に会わせられた。神は彼に、「アブラハムよ。」と呼びかけられると、彼は、「はい。ここにおります。」と答えた。神は仰せられた。「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい。」(創世記22:1~2)

信じられない主の命令です。たった一人の息子イサクを全焼のいけにえとして神にささげなさいという指示でした。アブラハムの子孫が夜空の星のように増え、世界の祝福の源になるという主の約束も、イサクが死ねば無意味になります。

 アブラハムは翌朝すぐに出かけました。(3節)ソドムが滅ぼされると聞いた時のアブラハムは、神に抗議し粘り強く交渉しましたが、今回は反発が見られません。その鍵は、「あなたの子、あなたの愛しているひとり子イサク」という主のお言葉でしょう。イサクは、アブラハムとサラの間にやっと与えられた子でした。愛してやまない息子でした。たった一人の子供でした。神は、その事情を深く理解した上で命じておられるのだとアブラハムには分かったのです。

「神はアブラハムを試練に会わせられた」(1節)試練は、偶然ではなく、自分の失敗や罪の結果でもありません。本当の試練は神から来るのです。1節の「ナサー」というヘブル語は日本語で試練に会わせると訳され、英語訳では<テスト>ととなっています。

スタンフォード大学のウォルター・ミッシェルは、4歳の子供に興味深い実験をしました。後に、「マシュマロ・テスト」と呼ばれて有名になった研究です。机と椅子だけの部屋に、子供を招き入れ、マシュマロを一つ机の上に置いて、これを食べてもいいけど、私が用事で出かけて戻るまで15分待ったらもう一つ上げると伝えました。
30%の子供が我慢してもう一つのマシュマロをもらいました。後日、追跡調査をすると、我慢できた子供たちのSATテストのスコアが、我慢できずに食べてしまった子より平均210点上でした。学力の差は、幼い頃のIQの問題ではなく、セルフコントロール力の違いから出ているようです。つまり、この小さなテストが子供の未来の姿を予告していたのです。
テスト(試練)とは、将来の私たちの姿を教えてくれるのです。

さらに言うと、テストは将来の私たちの姿を作るきっかけになります。
あなたが相撲取りだとしましょう。怪しげな男が近づいて来て、「あんたは勝ち越しできる力がある。それで相談だが、もし明日の一番で負けてくれたら100万円あげるよ、どうだい悪い話じゃないだろう」と言ったとします。あなたなら、どうします。もしこのテストに失敗すれば、この力士の将来はどうなるでしょう。きっと、相撲賭博から足を洗えなくなります。テストは、それ自体が、明日のあなたを方向づけます。

本当の試練は神から来ます。その試練によって私たちは練りきよめられ、鍛えられ、さらに輝きを増し、最終的には神の栄光をあらわすことになります。


2、モリヤの地へ

 イサクは父アブラハムに話しかけて言った。「お父さん。」すると彼は、「何だ。イサク。」と答えた。イサクは尋ねた。「火とたきぎはありますが、全焼のいけにえのための羊は、どこにあるのですか。」アブラハムは答えた。「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」こうしてふたりはいっしょに歩き続けた。(7~8節)
 
 いえにえの羊はどこにあるのかとイサクに聞かれると、アブラハムは「イサク。神ご自身が全焼のいけにえの羊を備えてくださるのだ。」(8節)と答えました。これが、アブラハムの信仰だったのです。
 アブラハムは指定の場所に着くと、石で祭壇を築き、たきぎを並べ、イサクを縄でしばり、その上に寝かせました。

 アブラハムは手を伸ばし、刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき、主の使いが天から彼を呼び、「アブラハム。アブラハム。」と仰せられた。彼は答えた。「はい。ここにおります。」御使いは仰せられた。「あなたの手を、その子に下してはならない。その子に何もしてはならない。今、わたしは、あなたが神を恐れることがよくわかった。あなたは、自分の子、自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた。」(10~12)

 アブラハムが刀を振り下ろそうとした瞬間、主の使いが呼び止めてイサクの命は助けられました。

アブラハムが目を上げて見ると、見よ、角をやぶにひっかけている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行って、その雄羊を取り、それを自分の子の代わりに、全焼のいけにえとしてささげた。そうしてアブラハムは、その場所を、アドナイ・イルエと名づけた。今日でも、「主の山の上には備えがある。」と言い伝えられている。(13~14節)

パウロは、「耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、試練とともに脱出の道も備えてくださいます。」(第1コリント10:13)と書いていますが、主の山に備えあり、と同じ意味ですね。

あなたの試練が一瞬であっても1年の長期に及んだとしても、アドナイ・イルエ、脱出の道は必ずあります。


3、神の友となったアブラハム

それから主の使いは、再び天からアブラハムを呼んで、仰せられた。「これは主の御告げである。わたしは自分にかけて誓う。あなたが、このことをなし、あなたの子、あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し、あなたの子孫を、空の星、海辺の砂のように数多く増し加えよう。そしてあなたの子孫は、その敵の門を勝ち取るであろう。あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。あなたがわたしの声に聞き従ったからである。」(15~18節)

「ひとり子を惜しまなかった」(16節)、「あなたがわたしの声に聞き従った」(18節)というアブラハムの信仰と姿勢を主が高く評価されました。

アブラハムが受けた試練はアブラハム固有のもので一般化できません。自分の子供を殺しなさい、という教えであるはずがありません。普通に考えるなら、アブラハムが行おうとしたのは子殺しで、世間でも、また聖書でも厳に禁じられている行為です。
ただ一人アブラハムと似た事をされた方がいます。父なる神です。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあるように、父なる神は御子イエスの命を私たちにお与えになりました。

創世記22章の出来事は、十字架において父なる神がなさろうとしていたことを、予告しておられたのだと私は思います。モリヤの地はエルサレム、4節の「3日目」という言葉は3日後の復活を連想させ、イサクも主イエスもひとり子なのです。

アブラハムは、父なる神の心の痛みを体験した地上でただ一人の人物になりました。後にアブラハムは神から「わたしの友」(イザヤ41:8)と呼ばれるようになったのは、この経験ゆえだと思われます。
キリストの十字架の苦難を描いた映画「パッション」で、主イエスが息を引いた後、天からの視点で一粒の水滴が落ちる場面がありましたが、父なる神の涙を象徴していたのでしょう。

さて、アメリカでは親が子供に運転を教えますが、私も娘に縦列駐車や車庫入れを教えました。要領がつかめないので、「ここで、何度でも練習しろ」と短気をおこして縁石に座っていたこともありました。
実地試験本番の日、私は娘を試験場(DMV)に連れて行き、近くの図書館で結果を待っていました。「主よ、テストに合格させて下さい。でも、不十分ならきっぱりと落として下さい。でも、やっぱり合格させて下さい。」とわけの分からない祈りを祈っていいると、娘が戻ってきて合格したというのです。「縦列駐車をやったか?」「うまくできた」「どうしてできたんだ」「お母さんから、コツを教えてもらって、その通りやったらできた」ハレルヤ!主の山に備えあり。娘は、テスト本番で、生まれて初めて縦列駐車を成功させたのです。
親は子供のテストの時、子供の成功を心から願います。神も、アブラハムが苦しいテストに合格し、将来の信仰姿勢を強固にしてほしいと熱烈に応援しておられたはずです。

 あなたは、今、試練の中にいますか。それなら、神の道を選びましょう。肉体的にも精神的にも経済的にに辛いかもしれませんが、必ず、主の山には備えがあります。試練のプロセスを通して、あなたはもっと愛の人、信仰の人、キリストに似た者に変えられます。

 →あなたの番です
  □試練は、私たちを磨き、神の栄光をあらわす
  □アドナイ・イルエ、主の山には備えがある

創世記21:1~34 夫婦の笑顔


 先延ばしにしている事がありますか。歯の治療。ビザや市民権のこと。引越し。子供の学校の問題。親戚の事柄。転職のこと。
大切なことだし、不都合も起きているし、何とか解決したいけれど、色々と難しいことが予想されて具体的なアクションが取れないことを私たちは抱えています。
アブラハムが、そういう問題にどう対処したかを見ていきましょう。


1、サラの笑顔

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。(創世記21:1~3)

主の約束が実現しました。90歳のサラは赤ちゃんを生みました。100歳のアブラハムは、おじいさんではなく、父親になりました。主は不可能を可能にする方です。

サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(6~7節)

赤ちゃんの名前はイサクですが、それは「彼は笑う」という意味です。

この年齢の女が赤ちゃんを生むことはあり得ない、と考えるのは現代人の私たちだけでなく、サラ自身も主の約束を聞いて冗談だと思って笑いました。今、赤ちゃんを腕に抱いたサラは、自分の愚かさを率直に認め、神に笑われてしまったと理解しています。かつての笑いは否定的な笑いでしがた、今、はちきれんばかりの笑顔になりました。このようにして、まことの神は私たちに笑顔を下さる方なのです。

今、あなたは暗い顔で毎日を過ごしていますか。主は、あなたに笑顔を必ず下さいます。主を知った人、主に罪を赦された人は、心の深い部分で大きな安心がやってきます。それが、普段の生活で落ち着いた笑顔になって表れます。


2、ハガルとの別れ

その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。(8~11節)

イサクの乳離れ記念パーティーの時、先延ばしにしていた問題と直面せざるをえませんでした。奴隷女ハガルに産ませたイシュマエルは14歳になっていて、彼が正式な跡継ぎのイサクをからかっていました。それを見たサラは、彼らを追い出すべきだとアブラハムを責めました。それでアブラハムはとても悩みました。道義的な問題もあり、情もからんでいるし、妻サラと奴隷女ハガルの確執も水面下であったことでしょう。イシュマエルとハガルが幼子イサクを殺害する可能性も捨てきれません。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(12~13節)

 主はこの事で悩むな、主がハガル母子を守り、子孫を大いなる国民とすると約束されました。アブラハムに対して、ハガルとイシュマエルを家から出しなさいと促されました。

 それで、アブラハムは心を決めて、翌朝早く、二人と別れました。みごとな即断です。神がハガルとイシュマエルを守って下さると信じたからできたのです。
 
 家を去った二人は、砂漠をさまよい、水が尽き、悲劇的な死を予感した時、主の介入によって救われました。(14~21節)主は、アブラハムの見えない場所で、約束を実現されました。

 あなたの番です。先延ばしにしていた問題に立ち向かいませんか。主は、あなたを助けて下さる方です。


3、井戸の所有権争い

 ゲラルの王アビメレクは、いわば平和条約の更新のためアブラハムを訪れたと思われます。(22~24節)
 契約を結んだ後に、アブラハムは、自分たちの井戸がアビメレクのしもべに奪われて困っていると告げました。(25節)これも、先延ばしになりがちで、ちょっと面倒なトラブルです。アブラハムは、自分達が掘った井戸だと説明し、7匹の子羊をアビメレクに与えて所有権確認の印としました。(26~31節)ベエル・シェバは7つ井戸を意味します。
 アビメレク王が井戸の所有者はアブラハムだと認めた背景に、アブラハムの上に神の守りがある、「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」(22節)というアビメレクの認識がありました。つまり、ここでも、神の助けがあったのです。

 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。(33節)

決断したり、アクションしたのはアブラハムでしたが、神の守りと助けと時にかなった神のサポートなしには不可能でした。イサクが生まれ、元気に育っている。ハガルとイシュマエルと分かれることができた。井戸のいざこざも決着がついた。それで、神の助けを忘れないように、記念の木を植えたのです。その場所で、主をたたえ、主に感謝し、主を礼拝しました。

私たちも、アブラハムを真似をしませんか。神が助けて下さった時、神にいやしていただいた時、思いもかけない祝福を頂いた時、記念の木を植えたり、記念になるものを作ったり買ったりしませんか。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)


 →あなたの番です
  □主は、私たちに笑顔を下さる方
  □先延ばししている事を主に信頼して取り組んでみる
  □主の助けを忘れないように記念の木を植える

創世記20:1~18 同じ失敗


 同じ轍を踏む。二の舞を演じる。
 これは、同じ失敗を繰り返すということわざですね。創世記20章を読みながら、同じ失敗を繰り返したアブラハムと自分の姿を重ねて考えてみましょう。

 ところで、小説家の村上春樹はアメリカ東部に約2年滞在し、その経験を『やがて哀しき外国語』に書いていますが、次の言葉は示唆に富んでいます。「外国で暮らすことのメリットの一つは、自分が単なる一人の無能力な外国人、よそ者でしかないと実感できることだ。」村上氏も自分の言いたいことの二割しか伝えられず、差別を受けたり、だまされたこともあったといいます。何もかも剥ぎ取られたゼロの、裸の自分になれることが貴重な経験だと、村上春樹は書いています。惨めな体験が、自分の本来の姿に出会うチャンスにもなります。

 外国に住まなくても、同じ失敗を繰り返す体験は、隠れていた自分本来の姿に出会うチャンスになります。その失敗が身近な人に知られ、恥ずかしくて、血の気が失せてしまう経験。これも、何もかも剥ぎ取られてゼロになる体験です。
 失敗なしに生きることは不可能です。恥ずかしい失敗をしてしまったら、何を学習するか、どのようにそこから立ち上がるかが大事なのです。

1、失敗、叱責、助け

アブラハムは、そこからネゲブの地方へ移り、カデシュとシュルの間に住みついた。ゲラルに滞在中、アブラハムは、自分の妻サラのことを、「これは私の妹です。」と言ったので、ゲラルの王アビメレクは、使いをやって、サラを召し入れた。(創世記20:1~2)

 ソドムが滅ぼされた姿を目にしたくなかったのでしょう、アブラハムは山を降りて南西側のペリシテ人の平原に移動し、ゲラルに住みました。そこで、妻のサラを妹と偽るという、失敗をしました。創世記12章で、アブラハムはエジプトにおいても同じように嘘をつきエジプト王とトラブルになっていました。つまり、同じ失敗を繰り返したのです。

今回は、ゲラルの王アビメレクがアブラハムの妻サラを宮廷に召抱え、まもなく王の正式な妻となる運びとなっていました。アブラハムはどんな気持ちで、この成り行きを見ていたのでしょうか。

神は夢の中で、彼に仰せられた。「そうだ。あなたが正しい心でこの事をしたのを、わたし自身よく知っていた。それでわたしも、あなたがわたしに罪を犯さないようにしたのだ。それゆえ、わたしは、あなたが彼女に触れることを許さなかったのだ。今、あの人の妻を返していのちを得なさい。あの人は預言者であって、あなたのために祈ってくれよう。しかし、あなたが返さなければ、あなたも、あなたに属するすべての者も、必ず死ぬことをわきまえなさい。」(6~7節)

 アブラハムは今回のトラブルに際して、何もしていません。何もできなかったのです。神が主導権を取って解決して下さいました。神がアビメレク王の夢に現れ、事実を明らかにし、サラを無事にアブラハムに返し、危害を加えないように命じました。その結果アビメレク王は、神の語り掛けを厳粛に受け止めました。(8節)

 それから、アビメレクはアブラハムを呼び寄せて言った。「あなたは何ということを、してくれたのか。あなたが私と私の王国とに、こんな大きな罪をもたらすとは、いったい私がどんな罪をあなたに犯したのか。あなたはしてはならないことを、私にしたのだ。」(9節)

自分が悪かったときに叱責を受ける。それは、とても大事です。アビメレク王はアブラハムを厳しく責めました。神は、アビメレクの口を借りて、神の叱責の言葉を語っておらるように見えます。

本当に不思議なことですが、アビメレク王はアブラハムを罰する代わりに領内におけるアブラハムとサラの安全を保障し、サラをアブラハムに返し、多数の家畜や銀まで与えました。(14~16節)
アブラハムは、アビメレク王からもらった家畜や財産を見るたびに、恥じ入り、同時に、深く神に感謝したことでしょう。神は、失敗を恵みへと変換して下さったのです。

あなたの番です。恥ずかしい失敗をしたにも関わらず、あわれみをかけてもらったり、助けられた経験がありますか。それは、主です。主があなたを守り、助け、恵みを下さったのです。その主に感謝と賛美をささげましょう。

今、失敗の只中にいますか。主の守りと助けを信じて待ちましょう。自分の失敗をうやむやにしたり人のせいにせず、自分の失敗を認め、悔い改めて、神にゆだねましょう。


2、祈ったアブラハム

そこで、アブラハムは神に祈った。神はアビメレクとその妻、および、はしためたちをいやされたので、彼らはまた子を産むようになった。(17節)

神は、アビメレク王の夢の中でアブラハムの本当の姿が何か、アブラハムの使命が何かを告げました。アブラハムは「預言者」であり「あなたのために祈って」(7節)くれる人物と紹介されています。17~18節によると、アビメレク王に赦された後、アブラハムはアビメレクと家族のために祈ったことが分かります。そして、その祈りはきかれました。

神は約束されたとおり、アブラハムを祝福する者を祝福され、アブラハムによって周囲の人々に祝福が及ぶようにして下さいました。「わたしはあなたの盾である。」(創世記15:1)の通りに主は守って下さいました。

 恥ずかしい失敗をして神の助けと守りを経験したゆえに、私たちは身近な人にも幸せになってもらいたいと願うようになります。あなたが神から受けた恵みが多ければ多いほど、誰かのために祈る人になります。
 
 「あの人は……あなたのために祈ってくれよう。」(7節)

 この恥ずかしい失敗をアブラハムは隠すこともできました。ですが聖書にこの記録が残っている理由は、アブラハムが子供や孫に失敗を話したし、話す必要を感じたからでしょう。失敗こそ最も多くを学べる機会だからです。

 アブラハム・リンカーンは苦労の多い人生を送りました。貧農の家に生まれ、9歳で母が亡くなり、小学校は1年間だけ通い、雑貨屋の経営に失敗し倒産し10数年かけて借金を返しました。婚約者に死なれ、心を患って入院、何度も選挙で落選したすえに51歳で大統領になりました。
 あなたの成功の理由は何ですかと尋ねられた時リンカーンはこう答えました。多くの失敗を繰り返し、様々な苦しさを経験しましたが、そのすべての失敗と苦しい経験が私を人間らしい人にさせてくれたのです。

 失敗がその人を築き上げます。恥ずかしい失敗をしたなら、大切なものをつかんでから立ち上がりましょう。

 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。(ローマ8:28)

 →あなたの番です
  □恥ずかしい失敗をしたなら、謙虚に神の前に出る
  □神は、あなたの尻拭いをして下さるほど恵み豊かです
  □誰かの幸いを祈る者になる

創世記19:1~38 塩の柱


 今日のテーマは「滅び」です。

1、滅びから逃げる

 アブラハムを訪れた三人のうち二人がソドムを訪れましたが、創世記19:1によるとその二人は天使だったと分かります。ロトはソドムの門にいました。この時代、町の門に座る人は町の権力者を意味しました。9節から分かることは、古くからの町の住民からロトは成り上がり者としてねたまれていたようです。

 ロトは、二人を特別な人物と認識して歓迎し、食事を提供し、自宅で泊まってもらうことにしました。夜がふけると、ソドムの町の大勢の男達がやって来て、「ここに連れ出せ。彼らをよく知りたいのだ。」(5節)と言って、二人の客人を差し出すように迫りました。知りたいとは性的な意味合いを持つ言葉なので、ソドムの町の人々がどれほど堕落していたかが分かります。

 ロトが御使いを助けようとした熱意は認めますが、未婚の娘二人を代わりに差し出すという姿勢については私たちは納得できません。ロトに危険が迫ると、二人の御使いはロトを助け出して家の中に招き入れました。御使いは、群集の目が見えなくなるような特別な目つぶしをくらわせました。(6~11節)御使いは、ソドムを滅ぼすために来たとロトに伝えました。

 「 わたしたちはこの場所を滅ぼそうとしているからです。彼らに対する叫びが主の前で大きくなったので、主はこの町を滅ぼすために、わたしたちを遣わされたのです。」(13節)

 <滅び>には、二種類のタイプがあります。
 他者の邪悪な行為によって滅ぼされる場合。もう一つは、自分自身から出た有害な事柄によって自ら滅ぶ場合。ソドムは自分達の罪が原因となって滅びを避けられませんでした。
 いじめで自殺する子供たちは、他者の悪による滅びです。アルコール・薬物・ギャンブル依存の人たちは、後者の場合です。

 あなたは、今、滅びの危険を感じていますか。
 外部からの圧迫がひどすぎると、被害者はもう終わりだと思い詰めてしまいます。覚えてほしいことは、いじめでも、ブラック企業でも、カルトでも、多重債務でも、家庭内暴力でも、夫婦関係の破綻でも、様々な依存症でも、必ず脱出の道があるということです。

あなた自身の罪から出た問題でも、神は助けて下さいます。邪悪な人々の虜に捕えられても、脱出の道はあります。滅んではいけません。逃げ出しましょう。


2、アブラハムゆえのロトの救出

ロトの娘の夫たちはこの話を冗談だと聞き流し、滅びました。(14節)

夜が明けるころ、御使いたちはロトを促して言った。「さあ立って、あなたの妻と、ここにいるふたりの娘たちを連れて行きなさい。さもないと、あなたはこの町の咎のために滅ぼし尽くされてしまおう。」しかし彼はためらっていた。すると、その人たちは彼の手と彼の妻の手と、ふたりの娘の手をつかんだ。――主の彼に対するあわれみによる。そして彼らを連れ出し、町の外に置いた。彼らを外のほうに連れ出したとき、そのひとりは言った。「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。この低地のどこででも立ち止まってはならない。山に逃げなさい。さもないと滅ぼされてしまう。」(15~17節)

御使いたちはロトたちの手を握り、無理やり走り出しました。それは、「主の彼に対するあわれみ」(16節)によるものです。
主イエスを信じた私たちは、それと同じようにして救われたのです。あなたの身近にいたクリスチャンが、しつこいくらいの愛を持ってあなたの手を無理やりつかんで主イエスのもとに連れて来てくれたのです。

「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(17節)逃げる時は、未練を残してはいけません。罪と欲望の町は滅びるしかないのです。それを惜しんで振り向くなら、ソドムと同じ滅びを身に受けます。ロトの妻は、後ろを振り返ったので塩の柱になってしまいました。(26節)

主が硫黄の火を降らせたので、遠くから見るとソドム一帯はかまどの煙が上がるようでした。(24、28節)その光景をアブラハムは住まいのある山地から目撃しました。

こうして、神が低地の町々を滅ぼされたとき、神はアブラハムを覚えておられた。それで、ロトが住んでいた町々を滅ぼされたとき、神はロトをその破壊の中からのがれさせた。(29節)

29節によれば、ロトが救い出されたのは、ロトが正しかったせいでも、ロトが信仰深かったからでもない事が分かります。主がアブラハムと結ばれた契約のゆえにロトが救われたのです。祝福がアブラハムを通して周囲の人々に流れ出たのです。
 私たちも同じです。私たちの良い行いによるのではなく、主イエスの十字架の死によって救われたのです。

 主イエスは、天から火が下りソドムが滅ぼされた出来事について言及され(ルカ17:29)、「ロトの妻を思い出しなさい」(ルカ17:32)と警告されました。

 アーロン・ラルストンは2003年、ユタ州のキャニオンランズ国立公園で滑落、深くて狭い岩の裂け目で右手が落石の下敷きになり身動きがとれなくなりました。5日間そこを動けず、食料も水もなくなり、命が尽きる予感がしました。ついに6日目、右手を小型ナイフで切断しました。それで救われたのです。アーロンは、切り離した痛みの中であっても、心は大きな歓喜を経験しました。

 主イエスの体に釘が打ち込まれ、血が流され、主イエスの最後の息が終わった時に、私たちは罪から救われ、滅びからまぬかれたのです。以下のことばを心に留めましょう。

 「いのちがけで逃げなさい。うしろを振り返ってはいけない。」(17節)
 「主の彼に対するあわれみによる。」(16節)

 →あなたの番です
  □滅びに気づき、滅びから逃げ出そう
  □救いは神のあわれによる

 


第1ペテロ4:7~11  賜物を用いる年にする


 新年、あけましておめでとうございます。第1ペテロから新年のメッセージをお届けします。

1、新年に祈る

 万物の終わりが近づきました。
 ですから、祈りのために、心を整え身を慎みなさい。(第1ペテロ4:7)

 この世界は神が始めた、と創世記に書いてあります。この世界には終わりがある、と黙示録が書いています。人間にも初めと終わりがあります。私たちの人生は旅客機と良く似ていて、おぎゃと生まれることが離陸で、着陸は死です。着陸しない飛行機は存在しません。
 
 新しい年の初めに、終わりを意識しましょう。万物の終わりを年頭に置き、限りある人生をどのように生きたらよいのかを神に祈り導きを求めよとペテロは言いました。

今年の大晦日に一年を振り返って、心に大きな満足を得られることは何ですか。今年、主は何をあなたに期待しているのでしょう。何を実行するつもりですか。将来のためにどんな備えをしますか。今年、何を変えたいですか。何にチャレンジしますか。
年の初めに、静かな心で神に祈り、導きを求め、2016年を素晴らしい年にしましょう。


2、愛し合う

 何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪をおおうからです。
 つぶやかないで、互いに親切にもてなし合いなさい。(8~9節)

 ペテロの手紙は、迫害に苦しむクリスチャンを励ます目的で書かれました。苦難の中にあるとき、愛し合うこと自体に大きな意味があるとペテロは語りました。誰かの罪は、誰かがその被害をこうむりますが、愛はそれを覆う力があるのです。本当に価値あることは、愛です。

 成功することより、人より秀でることより、金をもうけるより、美しく飾ることより、もっともっと価値あることは身近な大切な人を愛すことです。

 さあ、今年、愛の言葉を言いましょう。「ごめんなさい」、「ありがとう」、「大好きだよ」を心を込めて言いましょう。言葉一つで、私たちは幸せになれるのです。
 今年、愛の行動をしましょう。その人の所に行く、一緒に時間を過ごす、心を込めて話を聞く、ヘルプする、支える、祈る、自分の持っているものを与える。それが、愛の行動です。



3、賜物を用いる

 それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。語る人があれば、神のことばにふさわしく語り、奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それにふさわしく奉仕しなさい。それは、すべてのことにおいて、イエス・キリストを通して神があがめられるためです。栄光と支配が世々限りなくキリストにありますように。アーメン。(10~11節)

 10節の「賜物」は、原文だとχάρισμαカリスマ)、英語だとGift、日本語になると賜物と訳されます。神は一人一人に違う能力をギフトしてプレゼントしてくれました。ハーレーの大型バイクをもらった男性は、磨いてばかりいますか。乗ってみるでしょう!ルクルーゼの高価なおなべをプレゼントしてもらったら、漬物石にしますか。料理をしてみるでしょう。賜物は使わなくちゃ意味がありません。

 10~11節から分かることは、第1に、賜物は神が私たちにくださったもの。僕らの能力は自分で実につけたものではないのです。第2に、人は違う賜物を持っている。みんなが同じようになる必要はないのです。第3に、賜物は、用いるために与えられた。誇った、隠したりするものではないのです。第4に、賜物を用いるときに、神の栄光が表れる。

そうさ 僕らは
世界に一つだけの花
一人一人違う種を持つ
その花を咲かせることだけに
一生懸命になればいい

 僕らは違っていていいんだ。その考えは、槇原敬之が作詞する前から、SMAPが歌うはるか前から聖書に書いてありました。

 賜物を人と比べるのは愚かです。あなたの賜物は何ですか。私たち一人一人は神のユニークな作品なのです。だから、あなたの賜物を用いましょう。
今年、賜物を用いて、主に仕え、教会に仕え、身近な人に仕え、そして、あなたの賜物を生かした方法で福音を伝えていきましょう。

 「それぞれが賜物を受けているのですから、神のさまざまな恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、互いに仕え合いなさい。」(第1ペテロ4:10)

 →あなたの番です
  □新年のために祈る
□今年、人を愛すと心に決める
□賜物を用いて主の栄光をあらわす年にする