創世記21:1~34 夫婦の笑顔


 先延ばしにしている事がありますか。歯の治療。ビザや市民権のこと。引越し。子供の学校の問題。親戚の事柄。転職のこと。
大切なことだし、不都合も起きているし、何とか解決したいけれど、色々と難しいことが予想されて具体的なアクションが取れないことを私たちは抱えています。
アブラハムが、そういう問題にどう対処したかを見ていきましょう。


1、サラの笑顔

主は、約束されたとおり、サラを顧みて、仰せられたとおりに主はサラになさった。サラはみごもり、そして神がアブラハムに言われたその時期に、年老いたアブラハムに男の子を産んだ。アブラハムは、自分に生まれた子、サラが自分に産んだ子をイサクと名づけた。(創世記21:1~3)

主の約束が実現しました。90歳のサラは赤ちゃんを生みました。100歳のアブラハムは、おじいさんではなく、父親になりました。主は不可能を可能にする方です。

サラは言った。「神は私を笑われました。聞く者はみな、私に向かって笑うでしょう。」また彼女は言った。「だれがアブラハムに、『サラが子どもに乳を飲ませる。』と告げたでしょう。ところが私は、あの年寄りに子を産みました。」(6~7節)

赤ちゃんの名前はイサクですが、それは「彼は笑う」という意味です。

この年齢の女が赤ちゃんを生むことはあり得ない、と考えるのは現代人の私たちだけでなく、サラ自身も主の約束を聞いて冗談だと思って笑いました。今、赤ちゃんを腕に抱いたサラは、自分の愚かさを率直に認め、神に笑われてしまったと理解しています。かつての笑いは否定的な笑いでしがた、今、はちきれんばかりの笑顔になりました。このようにして、まことの神は私たちに笑顔を下さる方なのです。

今、あなたは暗い顔で毎日を過ごしていますか。主は、あなたに笑顔を必ず下さいます。主を知った人、主に罪を赦された人は、心の深い部分で大きな安心がやってきます。それが、普段の生活で落ち着いた笑顔になって表れます。


2、ハガルとの別れ

その子は育って乳離れした。アブラハムはイサクの乳離れの日に、盛大な宴会を催した。そのとき、サラは、エジプトの女ハガルがアブラハムに産んだ子が、自分の子イサクをからかっているのを見た。それでアブラハムに言った。「このはしためを、その子といっしょに追い出してください。このはしための子は、私の子イサクといっしょに跡取りになるべきではありません。」このことは、自分の子に関することなので、アブラハムは、非常に悩んだ。(8~11節)

イサクの乳離れ記念パーティーの時、先延ばしにしていた問題と直面せざるをえませんでした。奴隷女ハガルに産ませたイシュマエルは14歳になっていて、彼が正式な跡継ぎのイサクをからかっていました。それを見たサラは、彼らを追い出すべきだとアブラハムを責めました。それでアブラハムはとても悩みました。道義的な問題もあり、情もからんでいるし、妻サラと奴隷女ハガルの確執も水面下であったことでしょう。イシュマエルとハガルが幼子イサクを殺害する可能性も捨てきれません。

 すると、神はアブラハムに仰せられた。「その少年と、あなたのはしためのことで、悩んではならない。サラがあなたに言うことはみな、言うとおりに聞き入れなさい。イサクから出る者が、あなたの子孫と呼ばれるからだ。しかしはしための子も、わたしは一つの国民としよう。彼もあなたの子だから。」(12~13節)

 主はこの事で悩むな、主がハガル母子を守り、子孫を大いなる国民とすると約束されました。アブラハムに対して、ハガルとイシュマエルを家から出しなさいと促されました。

 それで、アブラハムは心を決めて、翌朝早く、二人と別れました。みごとな即断です。神がハガルとイシュマエルを守って下さると信じたからできたのです。
 
 家を去った二人は、砂漠をさまよい、水が尽き、悲劇的な死を予感した時、主の介入によって救われました。(14~21節)主は、アブラハムの見えない場所で、約束を実現されました。

 あなたの番です。先延ばしにしていた問題に立ち向かいませんか。主は、あなたを助けて下さる方です。


3、井戸の所有権争い

 ゲラルの王アビメレクは、いわば平和条約の更新のためアブラハムを訪れたと思われます。(22~24節)
 契約を結んだ後に、アブラハムは、自分たちの井戸がアビメレクのしもべに奪われて困っていると告げました。(25節)これも、先延ばしになりがちで、ちょっと面倒なトラブルです。アブラハムは、自分達が掘った井戸だと説明し、7匹の子羊をアビメレクに与えて所有権確認の印としました。(26~31節)ベエル・シェバは7つ井戸を意味します。
 アビメレク王が井戸の所有者はアブラハムだと認めた背景に、アブラハムの上に神の守りがある、「あなたが何をしても、神はあなたとともにおられる。」(22節)というアビメレクの認識がありました。つまり、ここでも、神の助けがあったのです。

 アブラハムはベエル・シェバに一本の柳の木を植え、その所で永遠の神、主の御名によって祈った。(33節)

決断したり、アクションしたのはアブラハムでしたが、神の守りと助けと時にかなった神のサポートなしには不可能でした。イサクが生まれ、元気に育っている。ハガルとイシュマエルと分かれることができた。井戸のいざこざも決着がついた。それで、神の助けを忘れないように、記念の木を植えたのです。その場所で、主をたたえ、主に感謝し、主を礼拝しました。

私たちも、アブラハムを真似をしませんか。神が助けて下さった時、神にいやしていただいた時、思いもかけない祝福を頂いた時、記念の木を植えたり、記念になるものを作ったり買ったりしませんか。

わがたましいよ。主をほめたたえよ。
主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。(詩篇103:2)


 →あなたの番です
  □主は、私たちに笑顔を下さる方
  □先延ばししている事を主に信頼して取り組んでみる
  □主の助けを忘れないように記念の木を植える